(社)日中友好協会編「日中友好運動五十年」2000年、東方書店の第六章「潮流、暗転冬の時代へ――友好と反友好の闘い」の後の2節「友好協会日共系と訣別」「表面化した協会内部の対立・抗争」に、問題となっている時期の日中友好協会の状況が描かれています。善隣学生会館事件についても、注で言及しています。
2000年10月9日 猛獣文士

友好協会、日共系と訣別


 佐藤内閣が反中国政策をとりはじめたころ、すでに説明したように、べトナム問題をめぐりアジア情勢は極度に緊迫していた。北べトナムへの軍事攻撃を拡大させる米国に対し、中国は、べトナムへの侵略は中国への侵略に通じるとみなし、断固として米国と対決し、国をあげて北べトナムの抗米・民族独立闘争を支援する決意を固めた。一方、"中国脅威論"にとりつかれた米国は、いっそう中国封じ込め政策に方を入れ、そのいったんとして日韓両国政府に、国交正常化のための日韓交渉の早期妥結をうながす。そうすることにより、日・韓・台の連携を強化し、中国包囲網強化のかなめとすることができるからである。

 他方でまさにそのころ、中ソ対立が公然化し、両国共産党間の論争・対立から、国家間の対立へとエスカレートしつつあった。中国が「社会帝国主義」と非難するソ連の大国主義的干渉が、このような事態を招いたのである。このため中国は、米国とソ連の二超大国から挟み撃ちされかねない情勢に追い込まれ、この危機を乗り切るためにも文化大革命を発動、国内体制の再編・強化と取り組みはじめたのである。

 このように中国が重大な局面に立っていたとき、長年「兄弟党」として親しい関係にあった日本共産党と中国共産党とのあいだで、国際共産主義運動の在り方をめぐって意見の対立が生じ、日共が反中国に転じる事件が起きるのである。

 一九六六年二月、当時書記長であった宮本顕治を団長とする日共代表団が中国を訪問、中国側と諸情勢について会談したが、意見が一致せず、共同声明に調印することなく帰国した。最大の原因は周知のように、北べトナムの抗米民族独立闘争に対する諸国共産党の支援の在り方についての問題にあった。ソ連との長年にわたる経験から、先に述べたようなソ連に対する不信感をつのらせていた中国側は、北べトナム支援にソ連を加えることに反対、ソ連を加えることを主張する日共とのあいだで、意見が一致しなかったのである。

 だが、日共のその後の動静をみると、問題は決して単純なものではなかったことがよくわかる。日共は、中国側との会談に臨めば、北べトナム支援問題と、これに関連してソ連の評価問題が、中心議題となることは百も承知していたはずだ。むろん、中共とソ共の延安時代からの関係と、六六年当時の実情も、十分に知っていた。だから宮本代表団は、ソ連に関する認識をめぐって、中共と見解が対立することも想定し、その場合には関係を絶つ方針を固めて訪中したことは明らか、と思われる。それというのも、日共はそのころ国内問題で、それまでの闘争を中心とする路線を転換しつつあったからである。その日共が、国際共産主義運動の路線でも、国際問題でも、さらには文化大革命という国内問題でも、中国のとる強硬な路線には賛成できない、とする方針のもとに臨んでいたことが十分に推測できる。宮本顕治が、党内で主導権を確立するためにとった手段であったかもしれない。

 とはいえ、体制が異なり国情も異なれば、国際連帯を重視する共産党同士といえども、国際共産主義運動や国内問題をめぐって、意見の不一致とか対立の生じることもあるだろう。むしろ、矛盾のない方が不自然とさえいえる。だから日中両国の共産党間に、意見の不一致や対立が起きたとしてもやむをえない。問題は、日共がその後にとった、中国との友好と交流すべてに反対する方針であり、とくに日中友好関係諸団体に日共の方針をもちこみ、中国との友好と交流に反対させようとしたことである。

 宮本代表団が中国から帰国したのは六六年三月だが、そのころから、日共内で中国との関係に関し、それまでとはまったく異なる出来事が次々と起きてくる。例えば、六五年に実施された日中青年友好大交流の記録映画「団結こそ力」の上映禁止、中国発行の中国を紹介する日本語の雑誌である『人民中国』『北京周報』『中国画報』三誌の購読および普及の禁止、日共の機関紙『アカハタ』に掲載されていた「北京放送」の番組表の掲載取り止め、同放送を聴く運動の禁止……。どうしてこういう動きが起きてくるのか、当初は一般によくわからなかったが、日共中央が中国との関係を絶ち、交流をしない方針を決定したことから現れてきた現象であった。

 日共の反中国方針を内部にとどめておけばともかく、その方針を日中友好諸団体へもちこみ、活動や交流を妨害しはじめたことから、活動や組織に混乱をもたらすことになった。どうしてそういうことになるのかといえば、日共はいろんな団体に党員を送り込んで組織をつくり(一般に「細胞」と呼ばれている)、この組織を通してこれらの団体に日共の影響を及ぼそうとしているからである。また、組織に属する党員たちは、党の命令に絶対に従うことが鉄則となっている。

 日中友好協会をはじめ日中友好関係諸団体の中にも、それまで日共党員が多数所属していた。日共は、これらの団体に所属する党員たちを通して、その団体に対し日共のとりはじめた反中国方針を押しつけにかかったのである。だが、例えば日中友好協会の場合、たびたび説明してきたように、特定の政党に属する団体ではなく、日中友好の発展を願う各界各層の人たちによって結成されている大衆団体である。政党でいえば当時、社共両党から自民党に所属する人たちまで参加していた。そのような性格の団体に対して、日共の方針をもちこんだところに、根本的な問題があったのだ。迷惑したのは社会党員や自民党員にとどまらない。友好協会に所属していた共産党員が、党の方針に従うか、日中友好を重視するか、板挟みの苦しい立場に追い込まれたのである。

 そのころ、日中友好活動の分野でどんな問題が起きたか、わかりやすい一、二の例をあげれば、まず中国との交流。六五年の成功に続いて六六年に、中国で第二回日中青年友好大交流が開催されることになり、中国から八百人にのぼる招待を受けた。日中友好協会や日本青年団協議会など関係諸団体で派遣準備活動をはじめたところ、日共が参加に反対する方針をとったばかりでなく、日共の指示に従った団体が、参加を阻止するためにいろいろと妨害工作を行った。佐藤内閣にとっては、もともと許可したくない大規模な青年代表団の派遣に関して、招待された関係団体の内部で対立が起きていることは、もっけの幸いであった。九月、いっさい旅券の発給を認めない方針を決定する。

 この年一一月から一二月にかけて、日中双方の貿易関係諸団体の主催により、北九州市と名古屋市で中国経済貿易展覧会が開催されることになり、日本側では貿易関係諸団体と日中友好協会などで協力会を結成し、半年ほど前から準備活動をはじめた。ところが、日共中央が同展に協力しない方針をとるとともに、関係団体に所属している党員を通して、規模を大きくさせないとか、展覧会場で「毛沢東選集」をはじめ中国を宣伝する書籍の販売や展示をさせない、などの妨害工作を行った。党員たちの中には、日中友好協会や国際貿易促進協会など日中友好関係諸団体で、重要なポストについている人物もいるので、彼らの言動が関係者たちに与える影響も少なくはなく、このため現地ではさまざまな混乱が起きた。

 日中友好協会の中では、日共指導部のとる方針に疑問を抱く幹部たちが情勢を憂慮していたが、八月の段階では、まだ最悪の事態を避けようと努力していた。八月二〇日の『毎日新聞』が、日共の動向をもとに「日中友好協会、分裂へ」との見出しの記事を掲載したときも、宮崎世民理事長が二二日、会員の動揺をおさえるため「日中友好協会に対して、何の理由もなしに中国との交流をやめろということは、豆腐屋に豆腐を売るなというのと同じであって、共産党がそんなバカな指令をするはずはありません。……どんな干渉も、圧力も、デマも、日中両国民間の友情を破壊することはできません」との趣旨の談話を発表した。

 さらに九月二六日には、大内兵衛(元法政大学総長)、末川博(立命館大学総長)、亀井勝一郎(評論家)、海野晋吉(法律家)、土岐善麿(歌人)、木村伊兵衛(写真家)、金子二郎(大阪外語大学学長)、杉村春子(文学座)、千田是也(俳優座)、中島健蔵(日中文化交流協会理事長)、太田薫(前総評議長)、岩井章(総評事務局長)ら各界の著名な人びと三二人が、内外の諸情勢がきわめてきびしいときに、日中友好運動が分裂するような事態になってはことが重大だと考え、「内外の危機に際し、再び日中友好の促進を国民に訴える」との声明を発表、名指しは避けながらも日共指導部に対し、反省と自重を求めた。声明は、次のように訴えている(要旨)。

 日本と中国の友好・交流をすすめ、両国人民の団結をつよめることは、戦後の日本において、真に国を愛するすべての人にとり、一日もなおざりにできない重大事である。それはまた、かつて軍国主義が歩んだ侵略から破滅への道を、決して繰り返さないと心に誓う、圧倒的多数の国民の願いを反映したものである。

 (米国のべトナムに対する戦争の拡大と、べトナム支援に関する中国の決意について述べたうえ)このような情勢の発展によって、われわれの日中友好・交流、両国人民団結の運動は、これまでにもまして緊急で重要なときを迎えている。……日中友好運動をとりまく環境はこんご、これまで以上に厳しいものとなるであろう。もっぱらアメリカ政府への追従をこととする勢力が、友好・交流にたいする妨害、圧迫をつよめてくることは疑いない。

 それと同時に、いま日中友好・交流の運動をさらに前進させるためには、日本の運動の内部に生まれている障害をのりこえなければならない。われわれの運動の内部には、最近、さまざまな口実を設け、友好・交流の発展を極力妨げようとする傾向が生まれている。このような傾向は、米日反動勢力を喜ばせ、かれらの反中国政策に手をかすものにほかならない。

 私たちこの声明に参加した者は、広範な国民のみなさん、各界各層の国を愛するすべての人に、確信をもって日中友好の大業をさらに前進させるよう訴えるものである。

 日中友好協会内で、日共中央のとりはじめた反中国方針に反対する勢力と、日共の方針を支持する勢力が決定的に対立し、反日共系が日共系と訣別することになったのが、一九六六年一〇月二五日に開催された第一三回常任理事会である。この会議の中心議題は、中国の第一七回国慶節に参加した日中友好協会代表団が、中日友好協会とのあいだで調印した共同声明の承認だった。

 共同声明は、べトナム問題をめぐる国際情勢や、これに関連する日中関係などについて検討したうえ、とくに次の三点の重要性について確認したものだった。

一、両国人民の安全とアジアの平和が大きく日中両国関係のいかんにかかっているのであるから、今後両国人民の友好関係は、子子孫孫にいたるまで守らねばならず、とくに今日の情勢において日中友好の発展と、共同の敵米帝国主義およびその手先に対する共同のたたかいが、これまでになく重要になってきたことを確認した。

一、双方は、日中友好・交流は、一貫して両国人民の共通の願望と利益にもとづいて相互尊重、 平等互恵、相互支援の立場から行ってきたし、また今後も行っていくものであり、日中友好・ 交流に対するさまざまの中傷とひぼうは一切根拠がなく、日本の日中友好運動を内部から破壊しようとするにすぎないものであることを一致して指摘した。

一、双方はいま、日本国内外においてさまざまな勢力が日中友好運動に対して、陰に陽に妨害を 加えている現状のもとで、日本各界知名人三二氏の声明と、中国各界人士および人民団体責任者五二氏の声明の発表(注5)が、重大な意義をもつものであることを認め、日中両国人民は力を、合わせ、万難を排除し、日中友好運動をいっそう広はんな分野に展開し、大きく前進させるべきであると強調した。

 この中の第二点は、日共が、中国は日共と日中友好運動に大国主義干渉を行ってきたと誹謗していることに対し、事実と異なるとして反論を加えたものである。

 この日の会議で、日共の指示に従う役員たちが、共同声明の承認に反対し、議事の進行を妨害した。

 結果をいえば、四三対一三で共同声明は承認されたのだが、日共系は採決そのものを認めず、議場は混乱し、収拾がつかなくなった。このため、一三人の反対派を除く四三人の常任理事会構成役員が、日共に従う勢力と訣別して引き続き日中友好運動を推進する決意を固め、翌一〇月二六日「日本中国友好協会(正統)本部」の設立に踏み切った。「正統」を付けたのは、日共系の団体と異なることを示すためであった。むろん、事務所も移転する。そしてただちに、全会員の再登録作業に着手するなど、組織の再編成を進めた。

 旗織を鮮明にした友好協会は、協会内外に対して「協会を本来の姿にとりもどし、広はんな国民各界各層の方々の日中友好の願いを基礎に、共同声明を柱として友好運動を大々的に発展させる」とする声明を発表したが、中日友好協会からすぐに、友好協会(正統)を支持するメッセージが寄せられた。日共系との抗争はそのあとも続き、この過程で「善隣会館事件」という暴力事件も起きた(注6)が、ほぼ一年かかって組織の再建も進み(六八年七月に開催した第一七回全国大会の時点で、会員約九千、府県本部四二、地区本部三一、支部二二〇)、活動も軌道に乗ってくる。そして活動の重点は、日共中央および日共系に対抗するためか、いっそう政治闘争に置かれていくのである。

 第一七回全国大会で決定した運動方針では、「当面の運動の重点」として「日米安保条約を粉砕し、日中両国人民の戦闘的友誼をつよめ、日中友好・日中国交回復を実現するために、豊富多彩な活動を積極的にくりひろげよう。反米愛国の統一戦線の発展をめざして奮闘しよう」とうたい、この方針に基づいて、米国のベトナム戦争拡大に反対する闘争、米国に協力する佐藤内閣に反対する闘争、あるいは米軍基地撤去闘争などへ積極的に参加していく。さらに、そのころからはじまった成田空港建設反対闘争(三里塚闘争)へも参加するなど、体制に反対する政治団体的な性格、いいかえれば階級闘争を目的とする団体としての性格が、いちだんと強まっていく。当時の内外諸情勢のもとで、それが「広はんな国民各界各層の日中友好の願い」にこたえる友好運動と考えていたのである。

 日共と訣別したのちの友好協会のこの時期の活動について、一九七五年に出版した日中友好協会全国本部編の『日中友好運動史』では、執筆者が、協会の左傾化の原因について「『日本共産党』に絶望した少なからぬ青年たちが、わが協会に、階級政党がやるべき仕事の代行を求めることもしばしばであった」として、米原子力空母入港反対デモ、王子野戦病院反対デモ、板付基地撤去闘争、三里塚闘争などへの参加をあげている。そして「デモの先頭に、協会旗がひるがえることを求める空気が強かった」と述べ、あたかも友好協会が青年などから「求められ」てこれらの活動をしたかのようにいっている。しかし、この記述は正しくない。

 理事会や常任理事会で方針を決定し、これに基づいて推進した活動であるからだ。

[先頭][Home][その他の資料目次]


表面化した協会内部の対立・抗争

 日共系と訣別し、混乱した組織を立て直して再出発したのもつかの間、こんどは友好協会内部で対立が起き、協会を二分する深刻な事態に陥った。 そのきっかけは一九六九年三月一五日、友好協会の本部に、協会員とこれに同調する人たち約三〇人が乱入し、会議中の協会役員をつるしあげ、もみあう中で、何人かの役員が負傷した事件である。

 友好協会内でいう「三・一五事件」であり、四月にも同様の事件が再発する。乱入理由は、協会本部のとっていた指導に対する批判と、それに関連して友好協会と友好商社の関係が不明確なので明確に第一八回全国大会で、来賓として東京華僑総会副会長の呉普文と隅岡隆春の二人を招いたが、隅岡の肩書は「日本共産党(左派)中央委員会代表」であって、機関紙では隅岡代表の祝辞を特段に大きく掲載していた。

 ともあれ、両派の対立が六九年四月ごろから拡大していき、友好協会はこの年の後半から、まともに機能しなくなってしまった。宮崎派は第一八回全国大会を開催して宮崎を会長に選出したが、黒田派は大会そのものを認めず、一時期、会長が二人存在する形になった。黒田派は大会と称する会議こそ開かなかったものの、黒田会長を支持する中央の役員や各地域協会代表の役員・会員らが集まって大会のような会議を開き、やがて機関紙『日中友好』を発行するなど、独白に活動を展開した。友好協会は完全に、分裂状態に陥った。

 とはいえ、ここで指摘しておかなければならないことは、こうした異常事態のもとでも、いくつかの地方の協会では、中央を中心とする誤った対立・抗争に巻き込まれることなく、地方の特性をいかした独自の活動と懸命に取り組んでいたことである。これら良識のある協会が、その後の協会の再建に、重要な役割を果たすことになる。

 日中友好協会の指導者たちが、六〇年代の後半から七〇年代はじめにかけてとっていた行動を、どうみればよいのか。日共系と対決し、訣別したことは正しかった。日共が反中国に転じ、日中友好にばけしはじめた以上、友好協会としてその道をとるほかなかった。

 けれども、そのあとの友好協会の対立・抗争は、どう考えても理解できない。なぜならば、両派の運動方針も具体的な活動もほとんど同じであり、中国との友好を重視する点でも、文化大革命を支持する点でも、まったく同じであったからだ。あえて違いをあげれば、黒田派は会辰が社会党左派に属していたところから、有力者には社会党左派系が多く、宮崎派の有力者には旧日共系が多かった、ということくらいである。

 このことからも、問題の所在は明らかに、協会の指導権をめぐる党派(セクト)の争いにあった。両派ともいずれも、日中友好のために努力し、それだけに相譲れない主張があったようだ。だが、それはあくまでも主観であって、客観的にみて両派ともに決定的に欠落していたのは、団体としての日中友好に対する責任感であり、一般社会に対する責任感であり、そして一般の会員に対する責任感である。日中友好を掲げる団体が、内部抗争を繰り広げることにより、一般社会の日中友好と中国に対するイメージを損ね、協会に対する信頼と評価を、どれだけ失墜させたことか。のちに述べるように、誤りはそれだけではすまなかった。協会に党派の争いを持ち込んだ弊害は甚大であり、その弊害を完全に克服 するのに二〇年近い歳月を要したといっても過言ではない。

 友好協会の対立・抗争にいちばん気をもんでいたのが中国だった。やがて明らかになるように、七〇年代に入り、日中関係をも含め中国をとりまく諸情勢が大きく変化しようとしていた。その重要な時期に、二〇年来一貫して日中友好運動を推進してきた日本の団体が、内部で対立・抗争を続けていることは、座視できない問題であった。とりわけ、日本の友好的な人たちや友好諸団体に、いつもきめ細かい心配りをしてきた周恩来が、このことを重視していた。そこで周恩釆は、七〇年一〇月の国慶節をとらえ、黒田と宮崎の二人に中国を訪問する機会を巧みに設け、自ら一夜、二人に対して対立を解消し、団結するよう説得したのである。一国の首相がじきじき、民間の団体の代表たちに、わざわざ仲直りの労をとるなどということは、まったく異例のことである。さすがに二人とも、この重大さを悟り、これをきっかけに団結に向けて努力することを決意した。

[先頭][Home][その他の資料目次]


[注]

(5)主な顔ぶれは次のとおり。郭沫若(全国人民代表大会副委員長、中日友好協会名誉会長)、劉寧一(中華全国総工会主席)、張奚若(中国人民外交学会会長)、廖承志(中日友好協会会長)、楚図南(中国人民対外文化友好協会会長)、李徳全(中華全国婦女連合会副主席)、許広平(同)、蔡廷?(国民党革命委員会副主席)、胡愈之(中国人民外交学会副会長)、周培源(中国物理学会理事長、北京大学副学長)、張春橋(評論家)、姚文元(中華全国青年連合会委員)、謝南光(中国人民外交学会理事)、馬純古(中華全国総工会副主席)、張香山(中国アジア・アフリカ連帯委員会副主席)、趙安博(中日友好協会秘書長)、肖向前(中国人民外交学会副秘書長)、陳永貴(大塞農業英雄)、王進喜(大慶油田英雄)、荘則棟(世界卓球男子チャンピオン)

(6) 東京・飯田橋にあった「善隣学生会館」は中国人の学生寮だったが分裂前の日中友好協会は同会館内に事務所を設けていた。日共系と訣別し日中友好協会(正統)を旗上げした日中友好・中国支持派が混乱を避けるために事務所を移したのちも、日共系が引き続き同会館内に事務所を置いていたため、中国人学生たちが「会館は日中友好のために使用するものである」として、反中国・反日中友好に転じた日共系に対し、立ち退きを要求、紛争が生じていた。六七年二月二八日、日共系が民主青年同盟などの青年を動員して中国人学生を襲撃し、多数の負傷者を出す事件を引き起こした。これに対して日中友好協会(正統)や国際貿易促進協会など日中友好諸団体も、多数の人びとを動員して中国人学生を守る態勢をとったことから、この事件は日中友好と反中国・反友好の鋭い対立を象徴する出来事となった。やがて日共系は同会館から退去した。

[先頭][Home][その他の資料目次]