Q5 協会本部襲撃事件(善隣学生会館事件)とはどういう事件なのですか。「暴力をふるったのは会館に住んでいた華僑学生だという説と、「協会側が華僑学生に暴方をふるった」という説がありますが,本当はどちらでしようか。暴力事件に対し、警察,マスコミ,あるいは司法関係者はどういう態度をとったのでしょうか。

1967年2月28日から3月2日にかけて日中友好協会本部の事務所に襲撃してきた一部華僑学生と中国迎合分子

「文革」がはじまった1966年の翌年1967年2月28日から東京都文京区の善隣学生会館に住んでいた華僑学生や「(正統)本部」の人たちは、同じ会館の1階にあった協会本部事務所を奪還すると称して暴力による襲撃をはじめました。この事件は主なものだけでも2年間で105回、重軽傷者は287名にのぼりました。[資料(3)参照]

 その背後には中国国内で暴力をともなって吹き荒れた「文革」がありました。日本でも「文革」を礼賛する人々が「日中友好協会(正統)本部」をつくり、自主的な日中友好運動を貫いているわが協会を敵視し、運動を妨害しようとしていました。協会本部襲撃事件は北京での紅衛兵による暴力をそのまま日本に持ちこんだものでした。ところが、暴力をふるった側は逆に「協会が暴力をふるった」との宣伝を盛んにおこないました。中国でも北京放送が「『修正主義者』が中国人にたいして暴力をふるった」と報道しました。

 これらは、まったく事実に反しています。暴力行為を受けた人々の証言、本部事務所内外の写真、一連の暴力行為の経過から見ても、協会側が一方的に暴力をふるわれたことは明白です。この暴挙にたいしては、阿部知二(作家)、松本清張(作家)、木下順二(劇作家)、山本薩夫(映画監督)、壷井繁治(詩人)氏ら幅広い層のひとびとが協会支援のため協会本部を訪れたり、数多くの激励の言葉や募金などがよせられました。暴力行為をやめさせるように警察にも要請しましたが、警察は暴力を制止せずに、協会支援のために集まった人々を排除することまで行いました。―般マスコミは当時「文革は偉大な精神革命である」などとする報道姿勢をとっていましたから、これらマスコミにたいしても暴力行為の現場を公開し、正確な報道を要請しましたがほとんど報道されませんでした。

襲撃の合間に協会事務局員らは正月にモチをつき団結をかためた。(1968年)

 このような警察やマスコミの背後には「文革」の真実を見抜くことができず、中国側に迎合しよぅとした当時の社会党などの政党、―部の貿易関係者や文化人などの姿勢があったのです。善隣学生会館内の本部事務所などの使用権が協会にあることについては当時の東京地裁が協会の主張を認めるといぅ仮処分を出しています。中国は「文革」は「10年の大災害」であった、と公式に認めていますが、「文革」の海外版である協会本部への襲撃事件や数々の干渉については、現在もその事実すら認めようとしない姿勢をとっています。

 中国の大国主義的干渉に迎合して旗揚げした分裂組織「日中友好協会(正統)本部」は1978年には正統の2文字を取り、ふたたび「日本中国友好協会全国本部(略称・日本中国友好協会)」を名乗るよぅになりました。まぎらわしい名称にしたためにどぅ違うのかという質問をよく受けますが、名前は同じでも活動の中身は根本的な違いがあります。私たちの協会は、平和・民主主義・人権尊重を基本にして日本国民の自主的な日中友好運動を探究しています。これにたいして、彼等は―貫して中国の日本における出先機関的な役割をはたしており、わが協会のように日本国民の立場にたった組織ではありません。

 ですから、彼らは中国当局がまちがったことを行っても十分な批判ができません。1989年の民主化運動の弾圧(6・4天安門事件)の際も中国当局の立場を擁護しました。彼等は日本政府に対しても批判的立場に立てません。協会は、日本と中国の友好を考えるうえで、かつての中国に対する侵略戦争の問題をあいまいにすることはできないとの立場から、日本政府が侵略戦争の国家責任を明らかにし国の責任で戦後補償をすべきだと主張しています。わたしたちの協会がどこまでも日本国民の立場から運動を進めているのに対し、日本国民の怒りや要求がどんなに強くても彼等はいつも中国の意向に沿って動いています。

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