Q4 「文革」のとき協会が分裂して二つの協会ができましたがその経緯はどういうことでしようか。二つの協会はどう違うのでしようか。

「文革」がはじまってからまもなく、1966年10月1日の中国建国記念日・国慶節に参加した協会代表団は12日に中日友好協会代表団と「共同声明」を出しました。[資料(1)参照]

 この声明には、@日中友好運動の発展のために、アメリカ帝国主義およびその手先(ソ連を中心とする現代修正主義など)とのたたかいが重要であること。A中国の文化大革命と紅衛兵の行動を革命的行動として評価し全面的に支持すべきものであることB日中友好・交流に対して協会内部にこれを中傷・誹謗し、破壊する勢力が存在することなど事実に反するだけでなく、政党政派、思想信条の異なる人々で構成する協会に対して中国の独特の政治路線を押し付ける内容が盛り込まれていました。同年10月25日の協会常任理事会では「文革」を支持する役員がこの共同声明への賛同を出席者に強要し、「賛同できない友好妨害者とはともに行動はできない」として会場から立ち去り、同じ25日に分裂組織「日本中同友好協会(正統)本部」を発足させました。中国側はただちにこの(正統)本部支持を表明するとともに、わが協会との関係を―方的に断絶しました。

 「文革」と大国主義的干渉から30年以上たちましたが、その後の経緯をみれば2つの協会の違いは明白です。協会はこのような困難の中で友好運動の精神を守り、協会の団結をはかりながら創立以来の伝統を保ちつづける態度を明白にし、その後の暴力的干渉を許さずに運動をくりひろげました。

「在日華僑学生と対外盲従分子の暴力と不当干渉」に抗議するデモ(1967年)

 中国の大国主義的干渉に迎合して旗揚げした分裂組織「日中友好協会(正統)本部」は1978年には正統の2文字を取り、ふたたび「日本中国友好協会全国本部(略称・日本中国友好協会)」を名乗るよぅになりました。まぎらわしい名称にしたためにどぅ違うのかという質問をよく受けますが、名前は同じでも活動の中身は根本的な違いがあります。私たちの協会は、平和・民主主義・人権尊重を基本にして日本国民の自主的な日中友好運動を探究しています。これにたいして、彼等は―貫して中国の日本における出先機関的な役割をはたしており、わが協会のように日本国民の立場にたった組織ではありません。

 ですから、彼らは中国当局がまちがったことを行っても十分な批判ができません。1989年の民主化運動の弾圧(6・4天安門事件)の際も中国当局の立場を擁護しました。彼等は日本政府に対しても批判的立場に立てません。協会は、日本と中国の友好を考えるうえで、かつての中国に対する侵略戦争の問題をあいまいにすることはできないとの立場から、日本政府が侵略戦争の国家責任を明らかにし国の責任で戦後補償をすべきだと主張しています。わたしたちの協会がどこまでも日本国民の立場から運動を進めているのに対し、日本国民の怒りや要求がどんなに強くても彼等はいつも中国の意向に沿って動いています。

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