8 文化大革命の傷痕

目次
西恋ケ窪で癒す傷痕
和田一夫会長――「書いて…」と手を握りしめ…
真の友好のあかし問う日々

 ◎西恋ケ窪で癒す傷痕

 東京都国分寺市の西恋ケ窪には、まだ、武蔵野の面影を残した雑木林があり、野川の付近には湧き水が出ていた。

 近くには石器時代の「恋ケ窪遺跡」があり、国分寺の跡もそう遠くない。西恋ケ窪は、太古からの歴史と自然にめぐまれた土地であった。

 樹木の繁った山地が海辺まで迫る紀伊半島の一角で生まれ育った私には、武蔵野では平地に雑木林があること自体、珍しく思えた。

 天気のよい日にはこの雑木林の道を、散歩した。

 子どもの頃、長野や新潟ですごした妻は、霜柱をかきわけて顔をだした蕗(ふき)のとうを目ざとく見つけては、子どものように声をあげて手に持てるだけ摘んで帰ってきた。赤味噌にねりこみ蕗(ふき)のとう味噌をつくって、酒の肴にしてくれた。

 一九七一年(昭和46)の春、桜まで日があった。 娘の百合子が産まれた直後で、妻にとっては産後いくばくもたっていない時期である。 代々水病院の石田一宏先生の指示で、一定期間の療養を命じられたことから、武蔵野の名残りのある地で一時を過ごすことができた。


 「極度の疲労による自立神経失調症状」

という診断がくだった。高血圧、多汗、心臓異常、不眠症がつづく。

 この病気を治すには仕事を休み、自然の法則に合った規則正しい生活をして、

「タマネギの皮を、一枚一枚むくように、疲労の皮を取り去る以外に治療法はありません」

といわれた。

 一時にくらべ病状がやや良くなったころ、山登りの好きな石田医師と看護婦さんから、

「いっしょに山に行きましょう」

と誘われて、へとへとになりながら丹沢山に登った。石田医師にかかっている男性患者二人も同行した。

 頂上にのぼったとき、誰かがいった。

 「橋爪さんは毛沢東にたいして、健康破壊の損害賠償の請求をしなさいよ…」

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 ◎和田一夫会長――「書いて…」と手を握りしめ…

 ある日、作家の鹿池亘(かじわたる)さん宅を訪問した。鹿地さんから、

「戦前戦後の民主勢力の日中友好の歴史と、併せてあなたの体験を書いておくべきだと思う。そうすることによって毛沢東の側の乱暴者たちの、理不尽さが浮き彫りになるのでは…」

といわれた。鹿地さんは協会常任理事。戦前のプロレタリア作家で、戦中に中国で反戦運動をしたことは知られている。

 そして帰国後は、アメリカのキャノン機関に拉致監禁された「鹿地事件」でも知られる。

 一九八七年(昭和62)の夏、日中友好協会会長の和田一夫さんが病状がよくない、というので私は和歌山から、東京の病院にお見舞いにいった。和田さんは、

 「君いろいろあったねえ… あれを書きなさいよ、僕は駄目だけど君は…」 と弱々しくいわれた。

 「あれ…」というのは、和田さんがつね日ごろ、

 「生涯にとって、一番、忘れられない思いがけないことだった…」 という中国の干渉であり、善隣学生会館事件であることは、私には痛いほどわかった。

 私はうなづいた。和田さんはふたたび小さい声で、

 「僕は書きかけたがだめだ。君にたのむよ…」 といってにんまりとし、別れぎわに弱々しい手で私の手をにぎった。これが和田さんと私の最後となった。

 その後、未完の遺稿が発見され「阿部知二さんのことなど」「日中友好協会結成のころと私」ほか、何縮かの貴重な原稿で、これは追悼集におさめられている。 医師のすすめもあって、私が和歌山に帰ったのは七一年(昭和46)の秋であった。 和歌山からも、帰れという声がかかっていた。石田医師は「空青し山青し海青し」の和歌山のほうが「病気の回復は早いだろう」という判断であった。

 帰った直後は毎日のように裏山にのぼり、あるいは海辺で釣りをしてすごしたが、その甲斐があったのか、体調は「玉ねぎの皮がむけるように」日に日によくなり、身も心も軽くなった。

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 ◎真の友好のあかし問う日々

 しばらくして東京から鈴木定夫さんが、すこし間をおいて群馬から武井勝さんが、和歌山の私の家にやってきた。東京でともに、苦労をした仲間である。

 鈴木さんは私より年配で、ある工場の労働組合で活動していたが、レッドパージで追放され、しばらくして日中友好協会の活動家になり、私のあとの事務局長職を引き受けられた。

 武井さんは善隣会館で、ともに監禁された一人である。

 元陸軍航空隊の技術将校で少佐であった彼は、仏が「切り絵創作運動」を会議で提唱したところ、

「この非常事態のなかで、色紙を包丁で切るようなことができるか?!」 と噛みついてきた一人であった。

 その武井さんが群馬に帰ってから切り絵をやりだし、日本の切り絵作家名簿に名前がのるようになった。私宅にこられたときには手土産に、自作の「つゆぐさの花」を持参されてきた。

 その当時のことを談じ腹をかかえて二人は笑った。

 それからのち武井さんは、交通事故で身動きができなくなり、残念にも切り絵も切れなくなった。

 二人の来訪のときに私は、早朝から、近所の海岸で釣った鯖(さば)や、鯵(あじ)の刺身を食べてもらった。

鯖の刺身は、初めてであったらしい。鈴木さんも、武井さんも、

 「東京よりもここのほうがいいなぁ、東京へ戻ってくれとは言えないね」 と言って帰っていった。

 だが、山と釣りの生活は長く続かず、民主的な地方新聞社から引っ張りにきた。

 「半日でいい…」

という話だったが、だんだん多忙な生活になってきた。

 和歌山に帰ってからも、日中友好協会の活動はもちろん続けた。柳田謙十郎会長からは、

 「君は歴史の生き証人だから、協会のほうはひきつづきお願いしたい」 との手紙を何通もいただいた。

 和田一夫理事長からも、何度となく同じ手紙がきた。私にとっても青春をぶつけた場所であり、終生離れられない運動であった。

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(橋爪利次著「体験的[日中友好]裏面史」第1章 東京でおこった文化大革命、日本機関紙出版センター、1996年)