5 文化界への波紋

目次
謀略に利用された文化人
松本張清さんと会う
清水寺の大西良慶貫主は言った…
財界・保守政界の文革賛美

 ◎謀略に利用された文化人

 中国の直接の干渉を背景にした野蛮な暴カ事件は、当然のことながら日本の各界に、大きな衝撃をあたえた。

 事件発生から一か月近く後の三月二十五日、文京区の礫川公園で、「真栢をきき、日本の民主運動の発展をかちとる青年学生集会」が開かれ、私も出席した。

 タ方からは同公園で、支援共闘主催の「外国の不当な暴カから日中友好協会を守る全都集会」がおこなわれ二千百人が参加した。終ってからデモが会館内の西側を通過し、協会内で頑張る私たちを激励して通った。労組、民主団体による支援共闘は、これから三年近く支援の人を協会へ派遣してくれた。そして、カンパや食料の支援もしてくれた。

 協会本部の完全な封鎖が、裁判所の仮処分決定であいつぎ解除した。しかし、出入りは依然、危険で、暴力、妨害のなか、民主団体、文化関係者、女性団体、法曹界、労働組合、青年学生、平和民主団体からの調査団、見舞い客があいつぐ毎日となった。

 こんなときに、 「日共修正主義者が華僑学生を襲撃した」とした謀略的な「三十五氏文化人声明」なるものが発表された。

 事件発生から二週間目の一九六七年(昭和42)三月十三日、この記者会見には伊藤武雄、白石凡、大河内隆弘、坂本徳松、柘植秀臣らが出席している。三十五氏のなかには、事情をよく知らないままに名前を出された人も多い。

 三十五氏の一人の東山さんが、

「私が知らないのに、名前を載せられていた」

とし、

「声明趣旨そのものにも賛成できない」

と抗議の意志表明したため、「声明」自体に疑問をなげかける人たちが増えた。

 学者、文化人では、毛沢東一辺倒組がでてきた。井上清、新島淳良、安藤彦太郎、岩村三千夫、河原崎長十郎、講談師の大谷竹山が急先鋒組であった。中国では劉少奇にたいする毛沢東、紅衛兵の攻撃がはじまると竹山は、こう言っている。

 「反党、反人民、国民党の手先、劉少奇と歯に衣を着せず言えるようになっただけでも、まことにもって、すっきりした感じである」

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 ◎松本張清さんと会う

 この声明のあと、協会へ文化関係者からの激励、「説明を聞きたい」という電話がつづき、私たちも本部襲撃を気にしながら外に出て訪問した。

 俳優の加藤嘉さん、劇作家の木下順二さん、そして山本安英さんにお会いしたり、鈴木瑞穂さんを自宅に訪問したりした。協会員でもある壷井繁治、鹿池亘、松本正雄という民主的文学運動の長老の方々は、事務所に時々見えられた。壷井さん宅には私は何回か訪問して、食事を御馳走になったりした。

 村山知義さんともときどき、自宅でお会いした。

 松本清張さんのお宅へも、何回かお伺いした。

 お会いしたのは早朝であった。

 「いや、おそくまで仕事があってね」

と、いつも言われていた。

 私から善隣事件の話をきいて、清張さんはつぶやくように「謀略だね」と言われた。

 藤森成吉、江口換、赤木健介、松田解子、吉開那津子、さらに須山計一、山田和夫、門倉快、土井大助、大友純さんらも公然と、暴徒を批判し、わが協会支持の輪をひろげていただいた。

 民主文学同盟の全国大会でも「外国の大国主義干渉と断固たたかう」決議を採択し、文団連が協会代表を招いて、真相をきく会を開いて協会を激励してくれた。

 六八年(昭和43)二月には映画、演劇、民族芸能関係の「日中友好脇会を支持しましょう」とのよびかけが発表された。山本薩夫、家城巳代治、小生夢坊、北林谷栄、三島雅夫、伊藤武郎、大空ヒット、佐々木愛、寺田真義、永田靖、間島三樹夫の十一人の連名であった。

 小生夢坊さんの茅ケ崎市の自宅にお礼にあがったさい、夢坊さんは、こういわれた。

「民族文化を大切にするので中国は立派だと思っていたら、そんなのをみんな、破壊されちゃうようだ。そんな流れが日本に上陸したら落語も、講談も、漫才もみんな敵にされちゃう」

 日中囲碁交流運動も混乱したが、石毛嘉雄七段(現八段)が干渉とたたかう先頭に立たれた。

 宗教界、特に仏教界にも分裂がもちこまれた。このなかで、中濃教篤、桜井栄章、細川友晋さんらが自主的立場で干渉とたたかわれた。

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 ◎清水寺の大西良慶貫主は言った…

 京都府連では、清水寺に上がって、大西良慶師ともお会いできた。

 福岡教学部長も出席された。良慶帥は九十才を超えたお年とは思えないお元気さで、

「正しいことは、いつかいいことが来る」

と激励していただいた。末川博先生のお宅にも寄せて頂いて、お昼に寿司の御馳走になった。立命館大学の武藤守一総長、寺前巌さん(現衆議院議員)にお世話になり、協会では山田高吉、君和田和一、吹田国汎さんたちに慰労された。さすが革新運動の強いところであって、毛派に走った文化人は、ものの数にはいらないほど少なかった。

 京都のわが協会事務局は草創期から文革直前まで、京大を出た山田高吉さんが事務局長として奮闘し、病気で休まれたあとは、吹田さん、石堂皓一郎さん、そして現在の栗田栄さんに引き継がれた。

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 ◎財界・保守政界の文革賛美

 財界人では川瀬一貫の文化大革命賛美論は有名であったが、宇都宮徳馬、田川誠一は、保守政界のなかの文化大革命派であった。田川代議士は、中国で大惨劇が続発していた六八年(昭和43)の秋の訪中から帰って、こんなことを言っている。

 「街も活気を呈し、幹部の言葉の端々に自信と希望がありありとうかがえました。これは文化大革命が完全に勝利して、党の整頓が進んでいると思う」

 六九年(昭和44)四月に中国共産党第九回全国代表大会が開かれたが、このさい北京にいた西園公一は、

「毛沢東の正しさが、ますます証明されたことを意味し、毛主席にたいする七億国民の敬愛と親愛はますますつよくなる」

と日本に伝えてきている。

 この大会が終了したあと、社会党代議士の黒田寿男「正統本部」会長「喜びを力に」と題した談話を発表し、

 「偉大な九大会の勝利万歳、プロレタリア文化大革命万歳、必勝不敗の毛沢東思想万歳、日中両国人民の戦闘的友誼万歳」

と日本の政治家とは思えない喜び方であった。

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(橋爪利次著「体験的[日中友好]裏面史」第1章 東京でおこった文化大革命、日本機関紙出版センター、1996年)