第三節  「赤旗」の言い分は三百代言

目 次
(1)
乱闘が一階でなされたことは中国人が襲撃した証拠となるか
中国人学生は毛沢東思想を押しつけたか
「出て行け」というのは不当か?
協会への「ニセ者」呼ばわりは不当か?
奪還闘争は襲撃の証拠になるか?
大衆闘争への本能的恐怖心
批判されただけでも「なぐり返せ」と「主張」
「権力のない連中」を「ひとひねり」せよとの青柳論
刑法を知らない松本弁護士

「赤旗」の言い分は、煎じつめれぱ


(イ)襲撃してぎたのは中国人学生であり、かれらが加害者であり

(ロ)中国人学生たちを半殺しにしたのほ、単なる正当防衛である

と言うに尽きます。この点をすこし立ちいって検討してみましょぅ。

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   (1)

まづ、中囲人学生が、襲撃者であり、加害者であるとの言い分。

「赤旗」は、その証拠として

1 事件がおこったのは、中国人学生らが住んでいる三階四階ではなく、協会事務所のある」一階である。

2 中同人学生らは、前々から、協会を反中国と罵りニセときめつけ、「出て行け」と脅迫・攻撃していた、の二点を「何よりの証拠」どして、くどいほどくり返しています。

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乱闘が一階でなされたことは
中国人が襲撃した証拠となるか

 赤旗」は、「だれがだれを襲撃したのかは、『事件』がどこでおこったのかをみれば明かです(三月七日)といい、「華僑学生などが負傷したのは……善隣学生会館の一階であり」(三月二六日「主張」)、「事件のおこった場所が一階の日中友好協会の事務所のドアのすぐ前であること」(四月二二日下司論文)を強調し、「華僑学生らが四階からおりてぎて、一階の日中友好協会を襲ったのです」(三月七日)と躍起になって宣伝しています。

 事件の場所が、中国人学生の居住する三、四階ではなく、協会事務所のある一階であったという、その場所の問題に、かくも執拗にこだわる考え方ほど奇妙なものはありますまい。

 こうなると、人間は、自分の住んでいる家の中で殺された時のみが被害者であって、それ以外の場合は、ことごとく侵略者、襲撃者とされることになりかねない論法です。

 救いようのない形式主義、最も低能なウスノ口検事などがよくこういうことを言います。

 一九五二年五月一日、東京の労働者は続々と人民広場にくりこんで行きました。「人民広場を人民ヵ手にとりかえせ!」と奪還闘争を行いました。突如、武装警官がメーデーの隊列に襲いかかり、死者二名、重軽傷五〇〇〇余名を出しました。

 世に言う「血のメーデー」事件。

 この場合、どちらが加害者で、どちらが被害者か。「赤旗」の論理によれば、労働者は、自分の自宅か自分の職場で殺されたのではなく、人民広場におし入って殺されたのだから、労働者の方が襲撃者で、死んでも自業自得だということになります。メーデー被告の前で「赤旗」はそう言ったらいいだろう。

 安保闘争のとき、樺美智子さんが殺されました。しかし「赤旗」の論法によれば、樺さんは被害者ではない。なぜなら、彼女が殺された場所は、国会の塀の外ではなくその内側であり、彼女は国会内に侵入し警官を襲撃し反撃されて死んだに過ぎない、ということになります。(事実、これほどまで露骨ではないにしても、それに近い態度を、当時の共産党の指導部はとりました)「赤旗」は、樺さんの七周忌の今、その霊前で「樺は加害者だ」と毒づいているのに等しい。

 関東大震災のとき、五千人からの朝鮮人が東京で日本人に襲われ虐殺されました。しかし、「赤旗」の論法によれば、かれらは襲われたのではないことになります。なぜなら、その虐殺は、かれらが住んでいる朝鮮の国内でおこなわれたのではなく、日本でおこなわれたのであり、朝鮮人が日本に攻め入り日本国内で暴動をたくらみ、井戸に毒を投げこんだりしたから日本人の「断平たる正当防衛」によって殺されたに過ぎない、ということになります。「赤旗」は在日朝鮮人六〇万の前で、朝鮮人を襲撃者呼ばわりして見たらよかろう。

 問題は「場所」にあるのではない。人間と人間の具体的な関係にあるのです。

 「赤旗」の写真にある梶棒などは中国人学生が使った兇器か?

 「赤旗」は、中国人学生らが、襲撃用に使った兇器なるものを、証拠品として鬼の首でもとったように、デカデカと写真入りで報じています。怪獣映画のトリックではあるまいし、子どもだましのインチキもいい加減にした方がよい。(「赤旗」三月十日)が「まさに殺人兵器 」と称したものの中には、鉄製の折りたたみイス、バケツ、教壇まで入っています。これが兇器だというなら日本中の学校はみんな兇器のかたまりになってしまいます。

 ところで、いまや完全にデマ新聞になり下った「赤旗」も、さすがに「中国人学生が協会室内に乱入、棍棒をふるって暴行した」とは一行も書いていません。中国人学生は一歩も協会室内に入っていないのです。一歩も入っていないのに、中国人が持っていたはずの兇器が、どうしてこんなにもたくさん、協会室内に残置されていたのでしょう。党員や読者はこれを不思議に思わないのでしょうか?

 しかも同じ「赤旗」が、

「これらの物品は、……五十六種。華僑学生らが二日午後、会館のあちこちから手当り次第に持ち出して協会本部入口の通行を妨害するためにトビラのすぐ前にぎつきあげたバリケードです」(「赤旗」三月一一日)

 と、うっかり本当のことをしゃべってしまっていますo

 三月二日に、中国人学生たちが積みあげた机などのバリケードを、かれらが自分で協会内に運び入れ、道を開いて襲撃に出たのです。そのあと、運び入れた物品の処置に困り、三日の夜これを会館理事会に返そうということになりましたが、協会が返しにいくのもおかしなものだという意見もあり、珍説迷論百出のあげく、これを全部解体して、角材や角棒の束にし、「兇器」と名札をつけて「引きとらせ」ようということになり (全くなんという形式主義)そのようにして会館理事会に目録をつくって持って行ぎました。会館理事会は、はじめ「わざわざ御丁寧にどうも」と受けとろうとしたのですが、よくよく見ると、いずれも「兇器」と書いてあるのでびっくりして「兇器なんか受けとれない」ということになり、そのまま今日にいたるも協会事務室内に残置されているのです。そこで商売っ気のあるやつが「いっそのことこれを見せ物にしよう」というので、先ずは兇器博覧会とあいなった次第です。

 こんな代物(しろもの)を、現地調査などと称して、文化人とか弁護士とか婦人運動指導者などが次々に見学に行き、

「まあ、すごい、こわかったでしょ、がんばってネ」

てなことになるのですから、どうしようもありません。こんな感覚、視点、眼力でものをみているのですから、べトナム戦争にしても、侵略戦と解放戦の見境いがつかなくなり、ただ「ヤメテー」という、無条件停戦論をいつまでたってもふり切れないでいるのです。

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中国人学生は毛沢東思想
を押しつけたか

「赤旗」は、在日中国人学生などが、毛沢東思想を日本人に押しつげようとしたと書きたてています。事実はどうか? たしかに中国人学生は、毛沢東思想をかかげています。熱心に宣伝もしています。中国人学生のみならず、多くの日本人が、それに関心をもち、研究がはじまっていまず。日中友好関係の諸事業では、毛沢東思想に関する書物が大々的に売られています。ただそれだけのことです。これは「押しつけ」でもなんでもありません。

 マルクスは「万国の労働者団結せよ」と叫んだ。かれはそれが正しいと信ずるがらそう叫んだ。かといって、マルクスが、団結を万国の労働者に「押しつけた」ことになりません。

 レー二ンは「プロレタリア独裁を承認しない者はマルクス主義者ではない」と、各国の共産主義者に向って説いて廻った。かといって、レー二ンが、外国人にそれを「押しつげた」ことにはなりません。

 日本人鈴木大拙は、「禅こそは最高の哲学である」と何年間もアメリカの中を講演して歩いた。その結果、アメリカ人の中に、禅のフアンが沢山でき、禅の研究者が多くできた。かといつて、鈴木大拙が、アメリカ人に禅を「押しつけた」ことにはなりません。

 日本の共産党員は、大衆の集まる場所には必ず「赤旗」をもちこみ、売り歩きます、駅売りもすれば、街頭売りもします。熱心な人は個別訪問までやって普及に努めています。なにしろ「赤旗」を拡大しないと上級からおこられるし、成績に関係するので大変です。しかし、これらは「赤旗」を「押しつげた」ことにはなりません。熱心に普及し、強引に拡大しているだけのことです。

 もっとも「赤旗」の拡大には「押しつけがましい」ところはあります。余りにも強引すぎるからです。いやだというのに、まあそう言はずと無理矢理とらせようとします。だが、普通の商業紙だってみんなそうです。過当競争だから各販売店はみんな血眼です。

 熱心な普及は「押しつけ」ではありません。

 強引にすぎる拡大を、「押しつげがましい」と言います。  そして、嫌だとはっきり断っているのに、権力ないし威力をもって強制するのを「押しつける」と言います。

 ところで、思想というものは、本来、「押しつける」ことのできないものです。かりに権力をもって強制したとしても、それに屈服した者の心中で、それは「思想」とはなりません。

 しかし、公然とないしは内心で、その思想に反対している者にとっては、熱心な普及活動を押しつけだと感じることはあり得ます。

 日共中央が、毛沢東思想の熱心な普及を、「押しつけ」だと感じるのは、かれらがこれに反対であることを証明するだけのことです。

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「出て行け」という
のは不当か?

 日中友好協会の活動の内容がどうあれ、それに対し、中国人学生などが「出て行け」ということがそもそも不当であるというのが「赤旗」の言い分です。日中友好協会本部は、「正式な契約にもとづいて借りている事務所を当然の権利として守っているのです」(「赤旗」三月二六日「主張」――強盗の論理の粉砕を)

 「かれらは、正式な契約にもとづいて善隣学生会館の一部を借りている日中友好協会を不法にも追い出そうとしているです」(同前)

 と、自らの正当性も、相手側の不法性もすべてこれ「正式」の契約を唯一の根拠としています。

 これを根拠に、やれ「家賃はきちんと払っている」とか、やれ「占有使用権は、玄関通行権と便所使用権をふくむ」とか、愚にもつかない法律用語を口走って、あたかも事件の本質が、事務所使用をめぐる民事の争いにあるかの如く申したてています。書記局発行の四月一三日付「党報」(NO.6)は「事件の本質は」協会の事務所の争奪であると言い切ってさえいます。

 冗談ではありません。

 事務所の使用が法律上正当か不当かではなく、その事務所で行われている社会的、政治的活動の内容が正当か不当かが問題なのです。

 それを、「赤旗」は、活動の内容には一切ふれずに

 「日中友好協会は……一九六三年以来正規の契約を結んで同会館一階に事務所を借りており、この点では二階を借りている商社や、四階を宿舎として借りている華僑学生などと対等の資格であって、華僑学生らが日中友好協会に『出ていけ』と脅迫したり、『事務所奪還闘争』などをやる権限はなに一つありまぜん」(「赤旗」四月一一日「真実に対する身のほど知らずの挑戦」)

「この会館の借用について日中友好協会が理事者側と正式に賃貸契約を結び、しかも東京地裁すら再三にわたってその正当性をみとめ、仮処分を出した……。この仮処分などがまちがいであるといぅ勇気があるなら異議申したてをしたらどうでしょうか」(同前)

 などと、法律家の住みこみ書生のようなことを言っています。

 こうなると、「赤旗」はもはや政党の機関紙とはいえません。家賃がどうこうとか、賃貸契約がどうこうとかの角度からものごとを見るのは、町の事件屋の三百代言のすることです。家賃を払っていても、政治的に悪いやつは悪いのです。家賃を払っていなくても、政治的に良いものは良いのです。これが政治家の態度、政党の立場、革命家の観点のはずです。それを、こともあろうに賃貸契約をもって、協会の正当性の根拠にするにいたっては、「赤旗」はブルジョア法律の擁護者になり下ったのです。まして、反中共活動を封殺するための立ち退き要求をする「権限」が、契約上許されているかどうかとか、やるなら「仮処分えの異議申し立て」が適法とか指示するにいたっては、ブルジョア法律の執達吏にまでなり下っています。いわんや、善隣学生会館が、本質的には中国の財産であり、実質の主人公は中国人学生であることも考えるなら、なおさらです。どんなに俗論がはびこり、法をかさにきた執達吏的暴力がのさばろうとも、共産党だけはプロレタリア階級として、政治的、歴史的、道義的立場を貫ぬき通さねばならぬはずなのに、逆に「政治的、歴史的、道義的立場を忘れて、ブルジョア法関係に根拠をもとめる『共産党』がどこにあろう。このことは要するにかれらが、私党の利益のためには日本人民の立場、国際主義の精神をいつでもなげすてて、どんないいかげんなものにでもとびつくものであることを、ここでもまたバクロしただでである」(前記、京都中国史研究グループ)と、いわれても返す言葉はないはずです。

「赤旗」の法律論によれば、契約こそが唯一の基準であり、会館理事会という「大家(おおや)さん」が至高のものとなります。ところで、その理事会が事件直後の三月三日に日共、協会側を「加害者である」と認め、同十日に「立ちのきをもとめ」はじめると、今度はそれらは「すべて無効である」(「赤旗」三月一二日)と開きなおりました。とにかくもう滅茶苦茶です。貫ぬこうとしているものは、一貫した論理ではなく、ただ居すわりたいとの私利私欲だけです。

 日本にいるアメリカ軍やその基地だって国際的な賃貸契約であるサンフラソシスコ条約、安保条約、行政協定にもとづいて、正当な手続きを経て蟠居しているのです。法的に、条約的に形式上はどう正当であろうと、占領を政治的に不当とし、法・条約・契約そのものをも不当とし、それをひっくり返し破壊するのが「共産党」であり、「赤旗」の本来の任務です。

 日本は、本来、日本人のものなのです。条約上どんなに正式であれ、米軍が入りこんでいるのは不当なのです。その米軍に「アメリカは出て行け」と闘うのが正当なのです。日本人が「アメリカは出て行け」と争ってこそ、日本人なのです。

 本来、中国人のものである会館に、契約上どんなに正式であれ、反中国団体が居すわっていることが不当なのです。その会館から、「反中国の二セ協会は出て行け」と闘ってこそ、本当の中国人なのです。

 そして、それが中国人であろうとなんであろうと、政治的に正しい要求で闘っている者を、断乎支持し、共に闘い、日本の法律の圧迫から守りぬいてやる立場に立つことこそが共産主義者の道であり、労働者階級の国際主義であり、革命・友好・人道の道なのです。

 中国人学生が協会に「出て行け」と要求することの当と不当は、契約や法律の問題ではなく、協会の活動の内容が政治的に当か不当かによってのみきまるのです。  では、協会の活動の内容は正当だったでしょうか、不当だったでしょうか。

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協会への「ニセ者」
呼ばわりは不当か?

 たしかに、中国人学生は、十一月いらい、日中友好協会に対する批判と非難の壁新聞をはりめぐらしています。

 では、この非難は、協会が言うように、「協会の『反中国活動』なるものについて一つも具体的に指摘することができず」「ただ『反中国』『非友好』ということばをくりかえすだけ」の「不当」な非難だったのでしょうか?

 冗談ではありません。

 昨年の三月下旬、日中両共産党の会談で意見が分かれて以来、日共中央の反中国活動は、陰に場にすすめられ、日中友好運動は日共中央の妨害、撹乱、分裂にさらされ、日中友好協会のうち、真に心ある友好人士の大部分は「正統派」に結集し、残留した人々は喜んでか、泣く泣くかの別はあれ、ともかく日共中央の言いなりに反中国活動をやっていたことは、かくれもない事実です。

 それはいまさら、「具体的に指摘」したり、根拠をあげたりするのも気恥ずかしいぐらい、天下周知の事実です。しかし、ここでは、協会の反中国活動についての在日中国人学生の意見が重要なのです。かれらがどう判断し、どう見ていたかが重要なのです。筆者は、善隣学生会館に寄宿している者の内、約四十人ほどに直接会って訊いてみました。この二十才前後の青年男女の胸中にある鬱憤は次のようなことがらでした。

「具体的に言って、どんな点が、 『反中国』で『非友好』なのか?」

 との筆者の質問に対し、中国人学生たちはこもごも答えています。

一、日中国交回復についての三二氏の声明に反対している

一、日中友好協会訪中代表団と中日友好協会との共同声明に反対している

一、九州と名古屋の中国経済貿易展覧会をことごとく妨害した

一、中国への単なる観光旅行に行くことすら妨害した

一、第二回日中青年大交流をことごとく妨害した

一、中国青年代表団、中国婦人代表団の入国や歓迎活動をことごとく妨害した

一、北京放送を聞くなと言い、「北京周報」、「人民中国」、「中国画報」の拡大をしない

一、「団結こそ力」第一回日中青年大交流の記録映画上映に対する妨害

一、文化大革命の内容を伝えない

友好すべき相手国の最大の問題を、評価は別として日本国民に知らせるのは友好の第一歩のばずだ。反対なら反対でよい。反対の立場で知らせたらよい。それをなんだ。かたつむりみたいに黙りこくって、しかも、それについて質問したりすると、ただ二ヤニヤ笑ったり、フフンと鼻の先で笑ったり、侮蔑と敵意の固まりじやないか。それで友好といえるか。自民党の人たちは、きっぱりと、俺は共産主義にも紅衛兵運動にも反対だが、それでも日中友好はやる、とはっきり言っているが、この方がよっぱど男らしいや。友好協会の看板だけはかかげて、蔭では、「文化大革命は滅茶苦茶だ、中国も大変なことになってしまった」とか、「三年待ちなさい、三年たてば毛沢東は死ぬ」などとしゃべり歩いているじゃないか、これが二セの協会でなくてなんだ。

一、中国北京・天津歌舞団の日本公演を妨害した。

 協会都連は、入場券五〇〇枚をひきうげておいて、ただの一枚も売らなかった。売れなかったのなら、それはそれでよい。しかし、下の支部や会員から間合せがあった時には「もう売り切れました」と偽って券を渡さずじまいにした。これは非協力でなく明白な妨害だ。しかも、公演の前日に、五〇〇枚をごっそりとつき返してきている。これでは妨害をさえのり越え、挑戦というべきだ。

一、「東方紅」の映画の上映活動を妨害した。

 券を売らないだけではなく、華僑学生が売った先に、わざわざ「行くな、行くな」と言って歩き回った。さらにそのプログラムに広告をとる活動まで妨害した。 「毛沢東選集」と「北京週報」の広告を出して資金援助をするという中華書店の申し入れに対し、「絶対にだめだ」と拒否し、「広告主がそれを出すのは、広告主の自由じゃないか」というと「それならそれで、そのプログラムは一枚も配らないぞ」とまで言い返した。

一、亜細亜通信社、貿易団体などの日中関係団体で、破壊活動をやった連中を「はげます会」を、日中主催で善隣会館の二階で行った。

 この問題についての評価、意見は色々あることや、人にはさまざまの政治的立場や事情があるぐらいは知っている。しかし、意見が真二つに分かれている事件の一方だけを、「はげます」ような会を、わざわざわれわれの眼前で、ここの二階で、主催までしてやることはないだろう。

 このように、中国人学主たちは、政治的、理論的なことはもとより直接の行動にあらわれ、かれらが身をもって体験し、目撃した具体的な事実をもって、協会を反中国と判断しています。

 これらの事例のうちには、日中友好協会が責任を直接負えないものもありましょう。直接には日本共産党中央が負うべきものが大部分で、しかし、日共中央の反中国路線の強圧に、協会が屈服し、追随し、盲従したという意味では、従犯、共犯の責任はあるでしょう。

 また、中国人学生たちが、「証拠品のビラだ」といって筆者に見せながら話してくれた次のような事件もありました。

一月三〇日に

  「毛沢東路線を盲襲する

  小児病的革命分子に告ぐ!」

と題する、次のようなビラが中国人学生の部屋に大量に投げこまれました。

 一、当館は君達の占有物ではない

  日本商社の存在することを忘れるな

 一、当館玄関を北京流壁新聞化

  することに断呼反対する

 一、青白い紅衛兵気取と馬鹿げた

  君達の言論を即時中止せよ

 一、当館でのあらゆる非合法活動

  の行はざることを望む

       日本商社運合

       日ソ友好協会」

 というものです。この会館内に、日本商社連合会なるものは存在しません。また「日ソ協会」という団体はあっても「日ソ友好協会」なる団体は存在しません。となると、これは大変悪質なデッチあげビラです。しかも中国人と、日本人と、ソ連関係筋との離反をはかった挑発ビラです。大変子供だましの低級な挑発ですが、中国人学生にしてみれば、コチンともくるし、「反中国」と思うのもあたり前でしょう。

 しかも、それをばらまいた者が、協会事務所から出てきて、また協会事務所に逃げこんでいるのです。あるいはそれをまいた者は、協会の会員ではないかも知れません(筆者もそう推定します)しかし、その者が、協会の事務所を利用し、協会がやっているかの如く見せかけ、そして、重要なことは、協会が、易々諾々とそうした反中国行為に利用されていることを放任しているのみならず、それをかばい立ててさえいるということです。

 日中友好協会が、「ただ従来通り正常に仕事を続けたい」(「赤旗」三月七日)とねがっていただけだという、その「正常な仕事」の内容は、このような「反中国活動を従来通り続けたい」ということなのです。

 これだけ様々の事実があれば、中国人学生が日中友好協会を「反中国」「非友好」と非難し「ニセモノ」ときめつけることは、すこしも「不当」でもなければ「汚らしい中傷」でもなければ、「根拠のない言いがかり」でもありますまい。

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奪還闘争は襲撃の
証拠になるか?

 中国人学生は、前々から二セ協会に「立ち退き」を要求していました。一方、日中友好協会(正統)本部の側の一グループ(「造反団」)は、「たとえ一時的にせよ、善隣会館の従来の事務室から移動して、そのあと二セ協会に使わしているのは不当であるからとりもどせ」との意見で、「奪還斗争」をはじめました。

 これらが二セ日中にはげしく「出て行け」と迫りました。このことこそ襲撃の証拠だと「赤旗」は書きたてています。

 中国人学生(寮生)は「造反団」の奪還闘争の主張とはなんら関係なく昨年より独自の行動をしていることは言うまでもありません。

「奪還闘争」という言葉自体や、その方針書などにある言葉が、どんなに激烈なひびきをもっていても、それが物理的な襲撃行動を意味しないことは誰でも知っています。

 共産党は小選挙区制粉砕を叫んでいるからとて、ある自治庁の役人が死んだとき、共産党の殺人ということにはなりません。共産党が佐藤内閣打倒を叫んでいるからとて、佐藤首相がゴルフ場で転んだとき、共産党が突倒したのだということにはなりません。

「出て行け」闘争や「奪還闘争」の存在ほ、なんらの襲撃証拠にはなりません。必要な要求をかかげた大衆行動、政治闘争があったというだけのことです。(このことは「奪還闘争」や、「造反団」の方針が「正統」派側の戦術として適切であったかということとは別の問題です)それとも「赤旗」は、およそ大衆行動や政治闘争はすべて襲撃に通ずるからけしからんとでもいうつもりでしょうか。もしそうだとすれば、「赤旗」は本来の革命性の最後の一滴まで失ってしまったことになります。闘わない党になってしまいます。

 ところが、どうやら本当にそのようです。闘いの内容に反対しているのではなく、「闘う」こと自体が「襲撃」をひきおこすからとて反対しているのです。なかんずく「実力をもってしても」などという言葉が入るような「闘い」は、暴力襲撃、暴力革命に通ずるからけしからんといっているのです。

 民主団体の開いた集会に、警察官が私服で正式に入場券を買って入ってきても、人々はこれを政治的につまみ出すことができます。それが闘いです。「実力に訴えても叩き出すぞ」と叫んでもかまいません。全員総立ちになってそのの私服を威圧してもかまいません。それは傷害でも殺人でもありません。

 ところが、「赤旗」は、「実力に訴えても」するような闘いは不逞のやからのする襲撃だかわけしからんと悲鳴をあげているのです。

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大衆闘争への
本能的恐怖心

「赤旗」の論理というものはまことに奇妙なものです。かれらは、自分に批判的な大衆が

 (イ)自分の要求を出すと、これを「脅迫」といい

 (ロ)抗議をしにくと、これを「襲撃」といい

 (ハ)押しかけて行って大衆的に抗議をすると、これを「暴行傷害のかぎりをつくし」といい

 (ニ)政治的に圧倒されて自ら室内に閉じこもっていると、これを「不法監禁」といい、

 すべてを悪意と偏見をもって捏造してしまいます。日本共産党幹部のこの悪意と偏見の底には、大衆行動政治闘争への恐怖心すら働いているようです。丁度、デモを見ると襲撃だといい、ストライキにあうと暴動だと逃げ廻る、臆病でかたくなで自尊心ばかり強い一部の中小企業のおやじのように、大衆闘争を、本能的に嫌悪、脅怖しています。

 その一つの見本として、大変滑稽なエピソードを御紹介しよう。

 主人公は、ちょっと小物で申し訳ないが、日共の東京都中部地区委員網島英高(法対部長)。人一倍頭は悪いが、しかし人一倍威張り散らしたいという低級で粗暴なこの男は、

 三月一日の夜七時半頃、若い者二人を左右にひきつれて、すごい剣幕で善隣学生会館の正面玄関から押し入ろうとしました。たまたま居合わせた華僑青年が、「何用か?」と訊ねても聞かばこそ

「俺は党の法対部長だ、俺が日中友好協会に行くのになにも貴様らに一々ことわるいわれはないッ」

 と、まあ大変な鼻息でわめぎたてるので華僑青年は、(「こんな奴がまちがって権力でも取ったら、日本も大変なことになる」と、しんからその時思ったそうです)言葉静かに言いました。

「今、この玄関ホールから廊下にかけて中国人学生が集会を開いている最中だから、余りドヤドヤのし歩かんで下さい。」

「中国人学生がなんだ、誰がそんなものがこわいものかッ」

「いや、こわいとかこわくないとか誰も言っていませんよ、集会中だから静かに行って下さいと言っているんです」

「静かに行こうと行くまいと、俺の勝手だ。俺はなんにもこわくない、一人でだってこわくない。一人で行く。お前らここに待ってろ」

と、さかんに「こわくない、こわくない」を連発し、連れの二人をそこにおいて、一人で玄関を入り、ホールの中へ進んで行きました。丁度その時、ホールいっぱいに集っていた中国人学生は、「毛沢東語録」の一節を読みあげ唱和していました。それを見るや網島は、なんにおびえたのか、ぎくりと足をとめ、しばらくたちすくんでいましたが、矢庭にパッときびすを返すや、今来た玄関の方に足早にもどり、玄関を出るや一目散に走り出しました。余程あわてていたとみえ、玄関横に工事用の砂がつんであるのに足をとられてひっくり返り、はね起きるや、すぐ隣りの砂利の山に足をとられてまた転び、やっとのことで立ち上ると、びっこをひきひき追われる者のように逃げ出していきました。連れの二人さえ、何事ならんと、ぽかんとそこに立ったままこれを見ていたほどです。


   (2)

「赤旗」はなぜこうも嘘ばかりつくのでしょう。

 恐怖心からであれ、敵意からであれ、なぜこうも、白を黒といい、被害を加害といい、さぎをからすといいくるめようとするのでしょう。

 それは、自分の犯罪をかくすためです。

 自分の罪を他人になすりつけるためです。

 自分が被害者になりすまし、自分の行動は正当防衛だったと言い逃れるためです。

 三百代言になり下った「赤旗」の言い分はもう支離滅裂です。

 かれらは、独善と自惚れの余り、批判されると脅迫されたといい、抗議されると襲撃されたといい、水鳥の羽音におびえる臆病者よろしく狂乱状態に入り、見さかいなく日本人と中国人を対立させ、「便所通行権」の確保のため中国人の頭を叩きわり半殺しにすることを「正当防衛」と称し、それを自主独立の政治だなどとあらぬ事を口走っています。

「赤旗」は、ざんざっぱら嘘八百をならべたて、中国人学生らを、兇悪無残な襲撃者に仕立てておいて、さてその上で、自分たちはやむなく正当防衛に出たのだと必死になって弁じたて自分の罪を他人になすりつけようとしています。

 では次に、その「正当防衛」なる言い分を聞いてみましょう。

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批判されただけでも
「なぐり返せ」と「主張」

 事件のおこったはるか一〇日前の二月一九日の「赤旗」の「主張」(「反党盲従分子の暴カにたぃする断固たる反撃は、正当防衛権の当然の行使である」)は、代々木に対する批判勢力の「干渉、ひばぅ、中傷、攻撃」に対して、「個人としても、組織としても」「ただちに毅然として実力をもって対処しろ」とし、それを「正当防衛の権利の行使」であると、暴行をけしかける指示を発しています。

 誰がどう読んでも、この主張でいう「実力」とは「なぐれ」ということです。これこそ暴行そそのかしのうごかすことのできない証拠です。

 もっとひどい証拠をあとで紹介しますが、いまここでこの「主張」にややたち入るのほ、ニつの理由があります。

 第一は、「なぐり返して」もかまわない相手方の暴力の状態とは、単に、「わが党に……悪罵をなげつけ」ただけで充分といっていること。

 第二は、その相手=(敵)とは、階級敵=米日反動ではなく、かれらのいう「反党対外盲従分子」だということ。

 まず第一の問題をすこし検討します。

「主張が、相手の暴力としてあげているものは

 (イ)「亜細亜通信労組員にたいしても、階段からつきとばし、なぐるなどの暴力をはたらき」

 (ロ)「『はぐるま座』争議団事務所を襲撃し、なぐる、けるの暴力をふるい」 の、たった二つだけです。この二つの実例は当事者に当って調べてみると、全く逆だといわれています。しかし、ここでは百歩ゆずって「主張」の言い分が事実通りだと一応仮定します。よし、たとえ、「主張」のいう通りの暴行がふるわれたとしても、その暴力の程度は、経験ある者なら誰でも想像できるように、二つに分れた大衆集団の政治的対立におこりがちな、押し合いへし合い、つきとばし合いの域を出るものではありません。それは仰々しく「かれらの暴力による攻撃」などと目の色変えて、金切り声をあげるようなことではありますまい。特にこの「主張」で二つだけ実例としてあげられた紛争の片方を「労組員」「争議団」などと、敵階級権力と闘っている組織を思わせるような名称を使っていますが、人をたぷらかすのもいいところで、二つとも実態は、単なる「分派」であり、しかも「破壊分派」にすぎません。「主勢」と「分派」がもみ合ったぐらいのことで、暴力よばわりは、ちといただきかねます。そして、このたった二つの「もみ合い」以外に、 「主張」が相手の暴力としてあげているものは、全部が全部

 (イ) 「わが党にたいする干渉、ひぼう、中傷、攻撃」

 (ロ) 「わが党に……悪罵をなげつけ」

 (ハ) 「組合員に圧力をかけるという暴挙」

 (ニ) 北京の紅衛兵の壁新聞が「わが党の指導者を『鉄拳でなぐってやる』などと高言した」こと

 というたぐいのものなのです。

 おどろくべきことは、「主張」が、「もみ合い」があったり、「悪罵」が放たれたり、批判が「書かれ」たりしただけで、 「なぐり返せ」と呼びかけたことです。自分への「批判」ないし「反対」をことごとく暴力あつかいしていることです。

 日共中央のこの独善的な自惚れは、病い膏肓に入っていて、救いようがありません。自分だけが、至上至高至尊で絶対に正しくて、他はことごとくまちがいだと狂信的神がかり状態になっています。蝦蟇(がまがえる)が空気をいっぱい吸いこんで、オレが世界で一番大きいとのたまわっているような醜悪な姿です。

 自分が絶対に正しいと神がかり的に自惚れているから、自分を批判するようなとんでもないまちがった奴は、なぐっても殺してもかまわぬと、ヒステリックに叫んでいるのです。

 次に第二の問題をすこし検討します。

「主張」が「なぐってもかまわない」とする相手=(敵)は、本当の階級的な敵である米日反動ではなく「反党対外盲従分子」と「特定の外国の一部勢力」であるということです。具体的に言えば、かれらのいう反党対外盲従分子とは昨日までの同志・友人で今は政治的意見の対立で袂を分った人々であり、かれらのいう特定の外国の一部勢力とは、中国の毛沢東を支持する中国人ということです。

 昨日の友と、中国人は「なぐってよい」というのです。

 おどろくべきことは、「赤旗」は今まで本来の敵、米日反動を、場合によっては「なぐってよい」とただの一回も言わなかったのに、昨日の友と中国人だけは「なぐってよい」と言っていることです。「個人としてもなぐってよい」と、個人テ口をまでみとめたことです。

 われわれは、暴力をいささかも否定しない。正当防衛とかなんとか、理屈をこねるまでもなく、暴力は必要な時には必要なのです。ふるうべきときにはふるうのです。しかしそれは、本来の階級敵、米日反動に対してです。

「赤旗」は、米日反動との闘いでは、常に、「挑発にのるな」をくり返してきました。いかなる場合でもそうでした。「実力をもって対処」せよなどとはおくびにも出したことはありません。デモのときには旗竿からプラカードまで投げ捨てさせました。右翼暴力団の本格的なぐりこみに対しても「手を出してはいかん」としてきました。

 しかるに、しかるにだ、中国人とその「同調者」にだけは、かれらが「わが党」への批判を「高言」しただけでも「なぐれ」という。

 アメリカに対しては「葬式デモ」、中国に対しては「実力行使」――これをして「中国封じこめ」への加担といわずしてなんぞや。

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「権カのない連中」を「ひ
とひねり」せよとの青柳論

この「赤旗」の「主張」を受けて、それをさらに具体化した大論文が、二月二一日の「赤旗」にのりました。

 執筆者は、中央委員青柳盛雄法規対策部長。

 題名は、「反党盲従分子の暴力には正当防衛を」。

 この論文は、すべての共産主義者が必ず一読せねばならぬものです。それは、かくも品性下劣にして、階級性・人間性の一片だにない文章を書くことのできる人間が、まだこの世の中に生存しているのだといぅ現実のきびしさを、しみじみとかみしめるためにです。

 青柳の論点は、

(イ)「説得し」ようとしても、「これはそう簡単にできることではない」から、「話し合いをしようなどとのんきなことをいっているのではだめで」、「こちらの実力で」「圧伏し」、「実力を発揮して、かれらを『ひとひねり』にしてしまわなければならない」 (ロ)「対抗できる武器を使うことは……必要である」。「味方の数が多いほど……確実で効果的である」。「怪我人は双方にでるし、味方も傷つくかも知れないが」おそれるな。

(ハ)「警察官がいて」相手を「阻止し」「くいとめるならば」、われわれは「まもられるかもしれないが」、「つねに警察官がその場にいてこれを防止するであろうなどと期待するのは非現実的である」。「警察官がくるまでの間に」「その場で機敏に」やってしまえ。

(ニ)「過剰防衛になりはしないかなどと心配して」「ひかえるのでは」だめだ。「相手が参ってしまっているのに追い討ちをかけたり……必要以上の打撃をくわえたり」しても、過剰防衛だとうそぶけば、「刑は軽くされるか免除される」から心配するな。

(ホ)とくに今やっつけるべき相手は、「なんらの権カももっていないし、権威もない連中だから」とことんまでやれと、いうのです。

 まさに法の盲点をついて殺人をそそのかすたぐいです。青柳は弁護士です。弁護士とは、殺人を冒したものでもできるだけかばうのが仕事とは聞いていたが、殺人をけしかけるものとは聞かなかった。

 医者がチフス菌をまいてあるくということがあるのです。弁護士が殺人の手引きをすることもあるのです。

 青柳は、赤尾敏が山口乙矢をそそのかして、浅沼委員長を刺殺させたのと全く同じことをやっているのです。

 これをして軍国主義復活への加担といわずしてなんぞや。

 青柳の主張には、いくつかの兇悪な特徴があります。

 一つは、「話し合い」をはなつから否定したこと。話し合った上でどうにもならないときに実力行使をするのではなく、最初っから、問答無用で斬りこめという新撰組の思想でず。職業的殺し屋の思想であり、朴正煕、ゲン・カオ・キの思想です。

 一つは、完全に、警察権力と野合した。青柳は、はっきりと書いた。警察権力は人民の敵ではなく、「われわれを守ってくれる」と。これは、警視庁機動隊の思想であり、検事の思想です。巡査出身の三田村四郎の思想です。

 特に最後の(ホ)の項は、一読、慓然たるものがあります。 「なんらの権力ももっていない連中だから」やっつけろとは一体なにごとでしょう。さきほどの「主張」は、「アメリカにはおとなしく、中国にはおそいかかれ」と、悪は悪なりにまだ政治的選択がありました。ところが青柳になると、その見境いもなく「権力のあるものにはおとなしく、権力のない連中にはおそいかかれ」と発展しています。共産党とは権力のないものの味方と聞いていた。ところが、中央法対部長は、権力のない連中をやっつけろという。日本共産党中央の転落、変質ぶりも、まさにことここにきわまれりというべし。

 権力に対する闘争では、暴力革命をしてはならぬといい、権力のない連中には、実力を行使せよという。これを修正主義といわずしてなんぞや。

 かれらは、口に「二つの戦線での闘争」を唱えるというも、かたやソ連「修正主義」には、「真理のための闘争をつづげる」だけにして、かたや中国「教条主義」には、実力をもって必要以上の打撃をくわえておけ」という。これ、修正主義、排外主義にあらずしてなんぞや。

 かれらは、口に「国際友党間の関係の基準」とか「友好の基準」を唱え、その実、かたや中国人学生にほ賃貸契約の遵守その他法律擁護を押しつける紳士ぶり、かたや下級党員には過剰防衛になっても罪は免がれるから「断固として」権力のない中国人をぶんなぐれとけしかける兇悪ぶり、まさにヤクザのやとわれ弁護士のしぐさ、これを排外主義、中国封じこめといわずしてなんぞや。

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刑法を知らな
い松本弁護士

 松本善明は三月二日の状況を

「刑法にいう正当防衛とは、『急迫不正、侵害二対シ自己又ハ他人ノ権利ヲ防衛スルタメ己ムコトヲ得サル二出テタル行為』ということになっていますが、(三月二日の事件は)まさに正当防衛行為に出なければ権利を守ることができない状態になっていたわけです」

 と言っています(「赤旗」三月七日「真実をつくりかえることはできない」)。

 ぬすっとたげだげしいとはこのことです。

 なにが「急迫」の事態か。

 対峙していた人間は、片方が七、八十人、それに対し包囲していたものは松本善明をふくめて六百人余です。(次頁写真)

 中国人学生らは、素手です。

 すでに警官隊が出動しているのです。(松本は先輩青柳の論文をよく読め、青柳は警官が来てくれない時に「正当防衛」をと言っているのだ)

 しかも松本らの方は悠々と、四、五時間も前から、へルメットと混棒を用意させ、襲撃の準備をするほど、計画的にことを運び、周到綿密にことを進めるだけの余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)ぶりです。松本らにとって、何が一体「急迫」していたというのでしょう。

 青柳・松本両弁護士に教えておきたいことがある。

 刑法にいう「急迫不正ノ侵害二対シ……己ムコト得サル二出テタル行為」とは、あまり咄嗟にふりかかってきた侵害で、身をかわすひまもなく、他にどうするすべもなく瞬間的に思いついてやる行為だということを覚えておくがよい。

 言うなれば、退がりはじめていたところを、へルメットをかぶった暴徒に突然混棒でなぐられた立場の人間が言うことなのだということを覚えておくがよい。

 したがって、あらかじめ正当防衛の準備をし、十日も前から機関紙で呼びかけ、論文で指図し、「正当防衛」の名目でやるべく組織された計画的な正当防衛などというものは、本来的に刑法上あり得ないのだということを覚えておくがよい。正当防衛とは、咄嵯に行われた行為をあとから認定するための法律用語です。あらかじめ綿密に計算し、周到に用意し、心構えをととのえて、しかも「正当防衛」の名にかくれて行う実力行使のことを、社会科学ならびに常識では、これを「侵略」「襲撃」と名づけることを覚えておくがよい。

 あらゆる侵略は、常に、「自衛」という名目で行われます。アメリカ帝国主義の侵略も「安全保障」とか、「間接侵略に対する自由の防衛」とかの名目で行われます。アメリカの雇兵である日本の軍隊も「自衛隊」とか「防衛庁」とか呼ばれています。

 かつて、日本帝国主義は、「暴支応懲」「権益自衛」の名目で一五年間にわたり中国を侵略したのです。 「暴支応懲」とは「乱暴なことをする支那をこらしめる」という意味で、実際は、民族独立闘争をおさえつけるということだったのです。「権益自衛」とは、中国人民の民族独立闘争でゆきずまってしまった植民地搾取をもりかえすために「正当防衛」の軍事力をもってするということです。中国人の毅然たる態度でゆきずまってしまった反中国活動を実力をもってもりかえすために、乱暴な中国人「教条主義者」をこらしめろとする現在の日共中央の「自主独立」論は、往年の日本軍国主義者の論法と全く瓜二つといえましょう。この日共中央の軍閥的理諭の鼓吹で、往年の中国侵略の遺物である善隣学生会館の中で、日本人が中国人を襲撃したのです。これは、芦溝橋事件(「日支事変」の発端となつた)と本質的に同じものです。そして中国人が攻めてきたと称しては戦争を拡大していくのです。日共中央のとっている道は、まさに軍国主義の道です。

 これをして前衛の転落と言わずしてなんぞや。

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