戦後華僑・留学生運動史(151)
善隣学生会館で日共反中国集団、華僑を襲撃(三)

善隣学生会館後楽寮に掲げられた日共糾弾の横断幕

予期せぬ出来事、反日共学生の闘争参加

 一方、この闘争の中で予期しない大きな出来事が起こった。即ち、三月二日の事件が発生して間もなく、三日から四日にかけて反日共全学連の各派が善隣学生会館に駆けつけて来て“日共との闘争に参加させてくれ、われわれは人民の裏切者日共を徹底的に粉砕せねばならない。日共の華僑学生襲撃を断じて許さない”と主張して会館に泊り込んだ。

 当時、会館一階の東側は日中学院の教室であったが、四教室あるうちの大きい教室は華僑の闘争本部で、隣りの教室が日中諸団体の闘争本部にあてられていた。反日共の学生たちには一番奥の教室に泊ってもらうことにした。

僑胞が食料差し入れで闘争支援

 当時、地下に食堂があって寮生を含めて常時二百名あまりの人びとが防衛にあたっていたが、食料は僑胞が米、肉、野菜、調味料など毎日差し入れてくれたので食事の心配はほとんどなかった。

 青年たちを主とするこれらの人びとは、会館内で防衛に当る一方、両闘争本部の計画に従って早朝から夜遅くまで、日共の華僑学生襲撃の写真新聞と事件の真相をまとめたパンフを都内や近県へ配ったり、電柱や壁に張ったりする活動に取り組み、時には警官に追われたりもしたがこれに臆することもなく毎日宣伝活動を続けた。

 一方、日共反中国集団は、東京各地からの毎日の動員に限界をきたすようになり、学習と称して日本全国に割当てて新しい人員に入れかえていたが、三月二日の“精鋭部隊”はいつの間にか必要人員のみを残し寄せ集め部隊に編成換えされ、双方が衝突するたびに弱体化していった。

闘争に疲れ“ニセ日中”会館を去る。

 会館の理事長は口頭で、日中友好運動を促進する日中友好協会に賃貸したのであって、反中国活動をし、中国人寮生を武力襲撃する、“ニセ日中”は速やかに会館から退去せよ、と幾度となく迫った。しかし、彼らが拒否しつづけたため止むなく裁判所に部屋明渡しの訴訟を提起し係争となったが、一九六九年、闘争に疲れ果てた“ニセ日中”は余儀なく会館から退去した。

日共暴徒の襲撃で負傷した華僑青年劉道昌君を病院に見舞う孫平化氏

 この間、華僑側にも色々と複雑な問題が起こっていた。

 寮生と各地から応援に駆けつけた華僑青年学生の一部及び反日共の各派日本学生の中に、日本帝国主義論や世界革命論を盛んに主張するグループがおり、彼らと祖国を熱愛し祖国を擁護して華僑の正当な権益を守り、愛国運動を推進しようとする華僑青年学生との間に対立が生じた。

学生と話し合い主要任務を確認

 闘争本部は青年学生たちと話し合い、今は日共反中国分子と断固闘い、“ニセ日中”を会館から追い出すことが最も主要な任務であり、また四月の新学期には学生はすべて学校に行くべきであるとの結論を相互に確認した。その間、華僑及び日中友好諸団体が交替で会館を守り、必要人員の宿泊条件も確保し、応援の日本学生及びその他の組織の人たちは会館を出て外から引きつづき応援することとなった。以後、会館は華僑闘争委員会が責任をもって防衛し、日中友好諸団体が全面的に華僑側に協力することで一本化され、六九年“ニセ日中”が会館から退去するまでこの態勢が続いた。

(華僑報1999年9月25日「戦後華僑・留学生運動史(151)」)

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