読売新聞の記事でも、寮生が一貫して留学生ということになっています。事件の経過については、三月二日午前までの取材ですが、スクラム合戦で「留学生側が押し勝ち、協会側は再びろう城」という部分に興味をそそられます。ヘルメットをかぶった武装部隊の「正当防衛権行使」は、このスクラム合戦の後の出来事でしょうか。
2000年12月24日 猛獣文士
 読売新聞3月2日朝刊15面の記事を追加します。
2000年2月18日 猛獣文士

深夜の“壁新聞”騒ぎ(朝刊)
中国留学生会館でにらみ合い


 一日夜、東京都文京区後楽一の七、中国人留学生寮善隣学生会館前で留学生六十人と日共系日中友好協会の学生、労組員ら約二百人がにらみ合い、乱闘にそなえて警視庁機動隊約百人が出動するなど、同夜おそくまで騒ぎが続いた。

 同会館は三−五階が学生寮、一−二階は日共系同協会などの団体が使っているが、昨年十月同協会が分裂、毛沢東支持の日中友好協会正統本部が新宿に本部をもうけ、日共系が同会館内に居残ったときから留学生との対立が始まった。

 約一週間前から、留学生たちが会館玄関わきに「ニセ日中友好協会は会館から出て行け」という壁新聞を張り、これを破った、破らないということから両者の間に口論が続いた。二十八日夜十一時ごろ「壁新聞を破られた」と留学生数人が、一階の協会事務所に押しかけ、居あわせた協会職員数人に学生の一人がなぐられるという事件がおきた。

 一日は、午後六時ごろから留学生側が、この事件の抗議集会を玄関ホールで開き、協会側は職員十数人が事務所内に立てこもり、協会を支持する学生、労組員などが道路をへだてた向かい側に集り、これとにらみあったもの。警視庁機動隊は、同九時半ごろ出動、スピーカーで双方に解散するよう呼びかけ、結局二日午前一時すぎ双方が一応解散したが、まだ紛争は続きそう。

(「読売新聞」昭和42年3月2日朝刊15面)

[前へ][先頭][Home][目次]


ついに乱闘騒ぎ 十数人
ケ ガ
"紅衛兵"留学生と友好協会員


入口近くの廊下で水をかけあってもみ合う両者(手前が留学生)

 東京・文京区の善隣学生会館で続いている中国留学生と日共系日中友好協会との対立は、二日午後、ついに双方入り乱れての乱闘事件となり、十数人が血まみれのケガを負う騒ぎとなった。友好協会側は会館内協会本部に立てこもり、一方、留学生側は廊下を占領、それぞれスクラムを組み、険悪な空気に包まれている。留学生たちは毛語録を高らかに読み上げ、紅衛兵騒動日本版といった形でにらみあい、警視庁も機動隊などを出動させ、成り行きを見守っている。

 同日午前一時すぎまで会館の内外でにらみ会った留学生と協会側は警察の勧告でいったん解散したものの、約六時間後の午前七時ごろ、協会側の約二十人が会館内に入ろうとしたことから再びもつれた。会館玄関には四人の留学生の不寝番がいたが、協会側はその警戒線を破って、同館一階西すみの協会本部に入ることに成功した。前夜から本部に“ろう城”していた人たちと合流、約五十人となった協会側は、同二十分ごろ廊下に繰り出し、留学生約三十人ともみ合い乱闘となった。

 この騒ぎで協会本部組織部長森下幸雄さん(三八)留学生側の王俊英君(十九)王政明君(十八)の三人が、それぞれ顔などに一、二週間のケガをした。同七時半ごろ、警視庁機動隊約二百人が出動、騒ぎはいったんおさまったが、協会側は再び本部にたてこもり、留学生たちは同館玄関のホールでスクラムを組みにらみ合った。協会支援団体も続々かけつけ、会館入口で「入れろ」「入れない」と小ぜり合いが繰り返された。

 留学生たちは同十一時すぎから約六十人がホールで集会を開き、正面に大きな毛沢東主席の肖像を掲げ、その下で円陣をつくって毛語録の朗読、玄関前の協会支援派に対し、手に手に赤い語録を振って、“帰れ帰れ”のシュプレヒコール。中国語の歌を合唱するなど、紅衛兵騒動さながらの物々しさだった。

 午後一時半ごろ、日中友好協会本部から数十人がスクラムを組んで廊下にくり出したことから、再び大乱闘となった。双方合わせて百数十人がいずれもスクラムを組み、幅約五メートル、長さ約二十メートルの廊下いっぱいに激しい押し合い。メリメリと廊下の窓ガラスがとび散る中で、バケツの水、消火器などがとびかい、棒切れなども持ち出され、双方合わせて十数人が割れたガラスの破片で手足や顔をけがして血みどろ。

 結局、約十分後に留学生側が押し勝ち、協会側は再びろう城。留学生側は協会本部入口と会館玄関に机、イスなどで厳重なバリケードを築き、会館全体が外部との交通をしゃ断された。

(「読売新聞」昭和42年3月2日夕刊11面)

[前へ][先頭][Home][目次]