1970年の七・七集会における華僑青年闘争委員会の演説の内容を正確に保存している文書が存在するのか、私は知りません。出版された華僑青年闘争委員会の機関紙などは、今となっては非常に入手が困難になっており、またそのような文書に、この発言が掲載されているとも思えません。演説を行った人物が演説の草稿を保持している可能性はありますが、このときの演説はむしろ草稿なしで語られたか、あるいは草稿があってもその草稿には縛られずに語られたものであるとも思われます。

 この発言を真剣に受けとめた新左翼側の最大党派だった(今も最大党派ではないかと思いますが)中核派の機関紙「前進」1970年7月13日号に、前進編集局の文責として、メモから再生された発言内容が掲載されています。30年以上がすぎた現在、この記事は非常に貴重な資料であると思います。物事の記録というのがどんなに難しいものであるかをしみじみと感じます。

 前進紙に掲載されていたこの記事は、現代古文書研究会の革共同中核派のページに公開されていましたが、本年(2001年)1月に、現代古文書研究会のウェブページが一時的に閉鎖されたあと、アクセスすることができなくなりました。華僑青年闘争委員会の発言として、このホームページから現代古文書研究会の該当ページに貼っていたリンクも途切れてしまい、復活の見通しも明らかでないので、本ホームページで独自にWeb文書化しました。

 入管法粉砕闘争を担った華僑青年闘争委員会は、善隣学生会館における闘いを担った後楽寮自治会の周りに集まった在日中国人青年達と、人的にも思想的にも多分に重なるところがあり、ある意味でこの発言の内容は、在日中国人という立場から、プロレタリア国際主義という理念を追求する運動を探求する過程での認識の到達点であるといえるかも知れません。もちろん、この到達点も、視点を変えれば一つの経過点であることは、言うまでもありません。

2001年2月18日 猛獣文士

七・七集会における華青闘代表の発言


 七・七人民大集会において華僑青年闘争委員会の代表が行った発言の要旨を次に掲載する。これはメモから再生したものなので不正確であることを免れないが、文責はすべて編集局にある。

 本日の集会に参加された抑圧民族としての日本の諸君!

 本日盧溝橋三十三周年にあたって、在日朝鮮人・中国人の闘いが日本の階級闘争を告発しているということを確認しなければならない。芦溝橋三十三周年の問題と、在日朝鮮人・中国人の問題とは密接不可分であり、日本人民はそれを知るべきである。諸君は日帝のもとで抑圧民族として告発されていることを自覚しなければならない。

 今日まで植民地戦争に関しては帝国主義の経済的膨張の問題としてのみ分析されがちであったが、しかし日本の侵略戦争を許したものは抑圧民族の排外イデオロギーそのものであった。

 今日、日・朝・中人民が分離されたかたちでマルクス主義が語られており、日本国家権力と日本人民、日本国家権力と中国人民、日本国家権力と朝鮮人民という形での分離が存在し、そういう形で植民地体制が築かれてきたが、それは分離したものではない。日本人民は三者の中でどうするのか。抑圧民族という自己の立場を自覚しそこから脱出しようとするのかそれとも無自覚のまま進むのか。立場は二つの分かれている。

 なぜわれわれは、本日の集会に向けての七・七実行委を退場しなければならなかったのか。闘う部分といわれた日本の新左翼の中にも、明確に排外主義に抗するというイデオロギーが構築されていない。日帝が敗北したとき、ポツダム宣言を天皇制が受けたかたちになり、日本人民がそれを避けられなかったところに、日本人民の排外主義への抵抗思想が築かれなかった原因がある。

 七・七集会を日本の新左翼が担うことは評価するが、それをもって入管体制粉砕闘争を怠ってきたことを免罪することはできない。七月三日の実行委員会に集中的にあらわれたように、七・七集会を全国反戦・全国全共闘の共催に使用とする八派のすべてが、入管闘争の一貫した取りくみを放棄しており六九年入管闘争を党派として総括することができなかった。また各派は、なぜ六五年日韓闘争において、法的地位協定の問題を直視しなかったのか。六九年入管闘争を闘っていたときも入管法を廃棄すればプロレタリア国際主義は実現することになるといった誤った評価が渦巻いていた。しかもそれは大学立法闘争にすりかえられ、十一月闘争の中で霧散し消滅し、今年一月、華青闘の呼びかけによってようやく再編されていったのだ。

 このように、勝手気ままに連帯を言っても、われわれは信用できない。日本階級闘争のなかに、ついに被抑圧民族の問題は定着しなかったのだ。日韓闘争の敗北のなかに根底的なものがあった。日本階級闘争を担っているという部分にあっても裏切りがあった。日共六全協にあらわれた悪しき政治的利用主義の体質を、われわれは六九年入管闘争のなかに見てしまったのである。今日の日共が排外主義に陥ってしまったのは必然である。

 われわれは、このかん三・五の「三・一朝鮮万才革命五十一周年入管法阻止決起集会」と四・一九の「南朝鮮革命十周年、全軍労闘争連帯、安保粉砕、沖縄闘争勝利、労学窓決起集会」で声明を出し、その内容を諸君らが受けとめ自らの課題として闘っていくことを要求した。四・一九革命に無知でありながら国際闘争を語るようなことでどうするのだ。

 われわれは戦前、戦後、日本人民が権力に屈服したあと、我々を残酷に抑圧してきたことを指摘したい。われわれは、言葉においては、もはや諸君らを信用できない。実践がされていないではないか実践がないかぎり、連帯といってもたわごとでしかない。抑圧人民としての立場を徹底的に検討してほしい。

 われわれはさらに自らの立場で闘いぬくだろう。

 このことを宣言して、あるいは訣別宣言としたい。

(中核派機関紙「前進」1970年7月13日3面)

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