戦後華僑・留学生運動史(149)
善隣学生会館で日共反中国集団、華僑を襲撃(一)

善隣学生会館に巣くう日共反中国集団は、完全武装の暴徒を動員し、素手の華僑学生に襲いかかった

 一九六六年から日共は日中友好運動の分裂、破壊に狂奔し、日中友好諸団体に対する分裂、破壊策動を行ったばかりでなく、華僑の経営する亜細亜通信社ののっとりをも策し、失敗するや破壊の手段にでたが、愛国華僑によって排除された。

日共、友好破壊画策会館一角を実力占拠

 このように日中友好事業の破壊を企む日共反中国集団は、善隣学生会館一階西側の一室(日中友好協会本部)を実力で占拠するに至った。

 彼らは、一般的には“ニセ日中”と言われ、日中友好協会の名を騙って反中国活動を行っていた日共中央指揮下の反中国集団である。

 同会館は日中友好のセンターとして使用することになっており、三、四階は中国人学生寮(後楽寮)であるため、通常会館への出入りは寮生と二階の商社の人たちが主で、これ以外外部からの出入りは殆んどない状態であった。日共反中国集団(大部分が民青)は、このことを利用し、昼間学生たちが学校へ行っている時間帯に反中国の大字報を寮生の通る会館正面の廊下の壁に張り出して寮生を挑発しはじめ、寮生がその大字報をはがすと、隠れて監視していた輩が寮生を包囲して罵声を浴びせ暴行を加えるという行為を繰り返した。

ニセ日中は友好の会館から出てゆけ

 特に一九六七年二月二十八日晩には、寮生を彼らの占拠している部屋に引摺り込んで暴行を加え七人の寮生が負傷した。

 寮生はこの様な実情を東京華僑総会、日中友好諸団体に訴えるべく、三月一日夜、会館玄関ホールで抗議集会を開き、民青を中心とする反中国分子の華僑学生に対する挑発、暴力行為についての詳細な経緯を報告し、“ニセ日中”は中日友好の会館から出てゆくべきである、と主張し、各団体の支援を要請した。

 各団体代表は一致して、日中友好センターとしての善隣学生会館内において日中友好協会を詐称する反中国分子が日中友好協会の部屋を実力で占拠し、反中国活動の拠点とすることは断じて許せない。われわれは会館理事会に対し速やかに“ニセ日中”を会館から追い出すように要求し、華僑と友好団体が一層団結して“ニセ日中”を会館から追い出すまで断固闘うことを確認した。

 集会開催中、日共中央幹部の指揮の下で多数の日共党員と民青が会館を包囲し、会館への侵入をはかろうとしていた。この緊急事態に対し、集会参加の華僑、日本人友人は反中国分子の会館侵入を阻止すべく徹夜で警戒に当る一方、会館守衛に対し、厳重警戒を要請した。会館責任者も連絡を受けて直ちに会館にやって来て対策にあたった。

 日共中央委員会法規対策部長の青柳盛雄中央委員(弁護士)は、二月二十一日の赤旗に「正当防衛というのは、その反撃の結果、相手が傷ついたとしても、それは自業自得であって、傷つけたこちら側には責任がない。罰せられないと言うことである」と大いに暴力行為を扇動していた。

日共の武装暴徒華僑学生を襲撃

 三月二日午前七時頃、“ニセ日中”の部屋のトビラが突然開いてヘルメット、棍棒、鉄パイプ、角材等で武装した日共暴徒が、玄関ホールで集会を開いていた素手の華僑学生、日本の友人に次々と襲いかかり、多数の負傷者が出た。重傷者七人の中には頭蓋骨陥没で一週間も意識が戻らない者もあった。

日共中央幹部が襲撃を陣頭指揮

 同日午前八時頃、青柳盛雄は護衛をしたがえて現場に現れ、先にきていた松本善明、坂本修(ともに弁護士)と合流し、直接指揮を取っていた。日共中央の指令で早朝から続々と会館を包囲していた日共暴徒の数は午前十時には数百名に達した。そればかりでなく、日共幹部会員候補内野竹千代、書記局員高原晋一、同候補金子満広、中央委員で国会議員の岩間正男、中部地区法規対策部長綱島英高、日共都議会議員梅津四郎、大沢三郎等日共幹部も続々とつめかけ、督戦し、“ニセ日中”の裏の窓から暴徒をどんどん繰り入れ、用意してあった武器で武装させ、会館の玄関入口と“ニセ日中”の部屋の両方から玄関ホールにいた華僑学生、日本友人をはさみ打ちで襲撃した。午後一時頃でこれが二回目の襲撃であり、午後四時頃に彼らは第三回目の襲撃を敢行した。

 三月二日早朝から会館責任者の要請で警察が会館事務所に待機していたが、日共暴徒の華僑学生、日本友人への襲撃を阻止しようとしなかった。

(華僑報1999年9月5日「戦後華僑・留学生運動史(149)」)

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