1967年4月15日付け「華僑報」の第3面は、短い文章が申し訳程度に書かれていますが、日本共産党の武装部隊が善隣学生会館を制圧した生々しい写真に埋められています。これは、大変説得力のある写真だと私は思います。

 上から二枚目の写真の、高い台の上に乗っているのでしょうか、ベレー帽をかぶったカメラマンの表情を見たとき、若かりし日の私の憎悪は否応無しにたかまったものです。なんともコメントの付けがたい紙面です。

2001年10月7日 猛獣文士


「日本共産党」暴力団の正体
− これでも“正当防衛”か −


 ここに載せた写真はいずれも二月二十一日の「赤旗」に日本共産党中央委員会法規対策部長青柳盛雄中央委員が発表した「正当防衛論」を地で行ったものである。青柳はその中で「正当防衛というのはその反撃の結果、相手が傷ついたとしても、それは自業自得であって、傷つけたこちら側には責任はない、罰せられないということである。」と大いに暴力行為を煽動した。そして三月二日午前七時には、三十数名の暴徒をして華僑青年学生を襲撃させ、自ら八時には随員を従えて現場に姿を現わし、先に来ていた松本善明、坂本修らと合流し、直接指揮をとっている。日共中央の指令によって早朝から暴徒は続々と会館に集まり、午前十時には五百名に達した。

 こればかりではない。日共幹部会員候補内野竹千代、書記局員高原晋一、同候補金子満廣、中央委員で国会議員岩間正男、中部地区法規対策部長綱島英高、日共都議会議員梅津四郎、大沢三郎等日共幹部が続々つめかけて督戦し、偽日中の裏の窓から暴徒をどんどん繰り入れ、かねてから用意してあったヘルメット、兇器で武装させ、玄関と偽日中の両方から会館内のホールにいる華僑青年学生と日本の友人にはさみ打ちをかける態勢を整えた。午後一時過ぎ、第二回の襲撃を敢行し、四時頃に第三回の襲撃を行なった。少数の素手の華僑青年学生に対し、ヘルメットに棍棒、バット、角材、鉄棒で武装した暴徒が突如として猛然と急襲をかけた.これらの写真はそのときの一部である。

 これに対し坂本修は四月二日の「赤旗」に、一頁にわたって「事実をつくり変えることはできない」という長文をのせ、青柳、松本と彼をはじめ日共幹部が八時前に現場に赴いたが、それは謀議したり指揮したりするためでなく、心配して行ったのだと、強弁している。しかし彼らの指揮する暴徒の完全武装による華僑青年学生や日本友人に対する襲撃の写真や、日共修正主義集団のファッショ的、殺人的な暴行については、ついに一言もふれられていない。これは彼自身が書いている通り、彼らがいくらき弁を労しても、ついに「事実をつくり変えることができなかった」ことを自らバクロしている。更に三月二十五日、自由法曹団団長岡崎一夫は、十四名の団員を引きつれて会館に現われ、現地調査と称して玄関ホールをうろつき廻ったが、日共暴力団の白色テロの写真を見せられてほうほうのていで立ち去った。

 そして三月二十六日の「赤旗」に談話を発表し、その中で「いままでは団員個々が泊まりこみまでして日中友好協会を支援してきたが云々」と、この事件が日共修正主義集団による華僑青年学生に対する組織的、計画的テロ行為であることを自らバクロした。

 このようにして日共修正主義集団は、昨年来、米帝国主義、各国反動派、ソ連修正主義の反中国大合唱の手先になり下り、気違いじみた反中国策動を続けてきた。中日両国友好史上、日本人が暴徒を計画的、組織的に動員し、華僑に集団テロ行為を行なったのは未だかつてなかったことである。しかも「日中友好」と書いたヘルメットをかぶった完全武装の暴力団が、日共修正主義集団の指令によって華僑青年学生を襲撃するというファッショ的暴挙は、ソ連修正主義集団のモスクワにおける中国留学生に対する殴打流血事件と全く同じ手口であるいうことに我々は重大な関心を向けなければならない。

 我々はこのような日共修正主義集団の本性を日本人民と華僑の前に徹底的にバクロし、中日両国人民の戦闘的友誼を更に強固にするために、敢然として断固として勝利をたたかい取らねばならない。

(「日本共産党」暴力団の正体「華僑報1967年4月15日」3面)

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